十等電信技手幸田露伴(続三)岡崎重陽 | 醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 村井の官歴も解せないが、さらに数奇なのはもう少し後に余市局長を務めた岡崎重陽である。岡崎は日本電信史において村井以上の大物である。明治二十二年の『工部省沿革報告』によると、明治五年五月に上席の寺崎遜とともに「英国ニ派遣シ電信技術ヲ研究セシ」められている。帰朝したのは七年七月であるから二年の留学であった。この時代、欧米に学んだ日本人はいま我々が想像する以上の数であるが、それでも岡崎はかなり早期の部類に属するだろう。
 

 岡崎の伝は大正五年に刊行された『日本電気事業発達史前編』(加藤木重教、電友社)の附録部分に掲載されている。これは岡崎の同僚でもあった著者が余市局を訪れた際の談話をもとにしている。また先述の『にしんりんご郵便局』にもやや詳しい記述がある。
 

 岡崎重陽は旧幕臣の出で安政二年(1885)生まれ。次郎長乾分の清水の大政の実弟であるという説があるが真偽は不明である。大学南校から工部省電信寮に出仕した。留学を命ぜられたのは僅かに十八歳の時である。まず米国に行き、ワシントンで折から使節団として巡遊中の岩倉具視にも面閲し、その後大西洋を渡った。最初の留学先はポーツマスの向いにあるゴスポートの海軍予備校(私立)で、ここには東郷平八郎も在籍していた。東郷の伝にはバーニーズ(Burney’s)アカデミーとある。ここで一年ほど普通学を修め、ロンドンに出て電信建築技師の家に下宿し、電気関係の学校にも通ったという。ケルビン卿にも会ったと書かれている。
 

 当初は三年間の予定であったが、このころ官費留学生全員に対し帰国命令が出たため中断せざるを得なくなった。帰国後は主として電信建設に携わったようで、検索すると施工関係の事績に富んでいることがわかる。
 

 北海道には十八年に函館逓信管理局電信建築主事として赴任した。この時は技手であったが二十年には奏任官の六等技師に上っている。二十二年には函館電信建築長を命ぜられたが、これは七月三十日の『朝日新聞』雑報に記載されている。この頃が最も得意の時期であっただろうが、二十四年にはどういうわけか職を一旦辞し、三十年に再度、しかも技手として札幌局の掛長として復帰している。その後余市局長になったのは三十五年である。小伝では余市赴任を「桂冠(挂冠の誤り)」としているが、三等局長は官職の列には入らず、吏員でなくなったということであろう。
 

 何故に中途で一旦官を辞したかは小伝には述べられていないが、娘婿の十河信二が著した『私の履歴書』には短く「炭鉱で失敗」と書かれている。十河は国鉄総裁を勤めた人であるが、その妻きくは明治二十一年函館で生まれ、十河が帝大生の時に結婚したとある。きくは上野音楽学校の学生であったが、結婚時、岡崎はすでに余市に逼塞していた。
 

 余市時代の岡崎については、読売新聞北海道支社が編集した『現代に残る北海道の百年史』(読売新聞社、1975年)中の「電信事始め」という記事に露伴と並べて簡単に記されている。岡崎は明治三十五年から大正十二年まで局長を務めた。さらに余市沢町局長となり昭和三年まで勤続した。これは余市本局の移転に伴う異動である。余市の町は余市川をはさんで北側の古くからの市街と、東側一キロほど離れた新開の大川地区に分かれる。もともと余市電信郵便局は沢町、今の水産試験場近くにあった。ところが鉄道駅が東側に開設されて以来、繁華の中心が東遷したのだろう、余市局は大川に移転した。同時に大川にあった大川町局が沢町に移転し余市沢町局となった。この時多少の移改築を伴ったかも知れないが、要するに本局の役目を交換したわけで局長の肩書も入れ替わったわけである。
 

 岡崎が二十六年間にわたる余市での局務を終えた後どうしたのかは分からない。記事によれば、東京に妻子を置いて単身であったという。その間、東郷平八郎の武勲や同僚後輩の栄達を遠くに聞いて、何が胸中を去来したであろうか。