十等電信技手幸田露伴(続二)村井一郎 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 村井一郎は、『逓信六十年史』では青木善松とその嗣伊三郎との間の局長としてリストされている。一方地元で編集された『にしんりんご郵便局』では青木善松が郵便局長であった時期にほぼ重なって電信分局長を務めたことになっている。村井は余市の人ではなく電信畑を歩んだ新潟県出身の技術者で、資料を繰ってみると古くは明治六年に開拓使から修技生として派遣された生徒中の一人である。『北大百年史』の史料中の「明治六・七年日記」にはやたらと電信生徒の記事があり、村井の名も見える。農学校の前身である開拓使仮学校は、当時まだ東京に在り、その生徒の何人かを修技学校に送り込んだのである。また開拓使の募集に応じて北海道から上京入校した場合もあったようである。


 村井の名を拾うと、六年十月に電信生徒を申し付けられ、翌年四月には浅草局に勤務している。もっとも官位は等外の扱いで、実習生だったと思われる。開拓使で採用されたはずだが、『改正官員録』から履歴を拾うと長く電信畑を歩み、しかも任地は北海道に限っていない。
 

 確かに当初は北海道に勤務した。明治四十四年に刊行された『札幌区史』には、十三年以後、村井が札幌分局長であったと記されている。『改正官員録』で任地が分かるのは明治二十年三月以降で、このときは富山電信分局長、六等技手下とある。富山局は二等分局で局長以下、書記二名、技手四名の所帯である。十年以上のキャリアを考えれば当然かもしれない。二十三年には六等中に上り月給は三十五円、二十四年には官等の区分が変更され四等上となっているが、給金は同じである。このころには富山局の人員は十人ほどにもなっていた。富山局長であったのは二十四年四月までで五月は別人に代わっている。
 

 その後一旦名簿から消え、再び現れた翌二十五年八月には札幌勤務になっている。しかし、席次は末席近くとまではいかないが位階も技手七級、月給二十五円になっており、元の余市局長田中己作六級より下位にある。翌年は函館に移るがやはり給金は変わらない。何があったか知る由もないが明らかな左遷人事である。別人である可能性も皆無ではないが、原籍が同じ新潟で、同時に存在しているわけではないため、まず同一人であろう。
 

 村井一郎について余市に記録がある以上実際に局長を勤めたのは確かなのだろう。しかし『にしんりんご郵便局』にあるように十年もいたわけではない。開設時に局長を務め、やがて別の任地、おそらくは富山の方面へ転出したのではなかろうか。『逓信六十年史』に郵便局長として数えられるのは不審であるが、余市の不確実な記録が混入したのかもしれない。
 

 あるいは富山から札幌に左遷される間に短期間任じられた可能性もないではない。余市電信局長は明治二十四年六月までは田中、十月には神谷泰恕が局長であり、七月から九月までは『改正官員録』が欠本である。村井が富山から消えるのが二十四年の五月であり、余市の郵便と電信局が合併するのが二十四年の十二月であることからすると、村井一郎は富山を離れた二十四年の六月以降のある時点から、青木伊三郎が合併後の局長を継ぐ迄のごく短期のみ郵便局長を務め、翌年札幌局に復帰したということであろうか。ただし、『改正官員録』では合併後の二十五年五月時点でも局名は余市電信局のままで局長も青木ではなく、移行時の実態はあまり判然としない。