森鴎外の欧州に遊ぶを送る(補一)松田天山、土肥鶚軒他の進級履歴 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 以前、松田天山の遺稿出版にまつわる話を書いた際に、土肥鶚軒の卒業年次の記憶が混乱しているとか、松田蔵雄の進級が遅いなどと述べたが、調査不十分による誤りと判明したので、ここで訂正を記しておきたい。


 以下の殆どは、国会図書館のデジタルコレクションに収められている当時の『大学一覧』中の学生生徒名簿を参照した結果である。関係するのは松田蔵雄(天山)と、その死後に詩集を編んだ友人呉秀三、同じく森篤次郎(三木竹二)、土肥慶藏(鶚軒)と佐藤勤也(碧海)である。
 

 結論から言えば、ここに挙げた松田を除く四名は全員明治十八年十一月に東京大学予備門分黌を卒業している。十一月の卒業は、当時医学部の学年暦が他学部と異なり十二月開始であったためである。この変則は高等中学の発足を待って解消、すなわち九月開始に統一された。松田は直前の七月に水死しており、卒業には至らなかった。いずれにしても土肥鶚軒の記憶は正しかったし、松田蔵雄の進級については、当時の予科の修学年限を後の旧制高校と同じく三年と思い込んでいたためであった。
 

 現存する『一覧』中の名簿から以上の五名を探すと明治十三年版、これは十三年十二月から翌年十一月のもので十四年春に刊行されているが、ここに五等預科乙生として、松原慶藏と石渡只蔵がいる。松原慶藏は即ち鶚軒土肥慶藏である。越前武生の医家の出で、元の姓は石渡であるが、著書『鶚軒游戯』によれば一時松原孝斎の養子になっていた。その後離籍して、母方の叔父の養子となって土肥を冒した。石渡只蔵は三歳上の兄で同時に入学したのである。『天山遺稿』中の書き込みに「家兄疾ヲ以テ学ヲ廃ス」とある人だが、早世したわけではなくその十男が慶藏の後を継いだというから長く生きたであろう。立命館大学石井眞美子氏の論攷(「佐藤碧海の詩と生涯(上)、学林75巻、2022、及び同(下)、同76巻2023」)の註釈がその略歴に触れている。名簿では両人の本籍が石川となっているが、これは福井県(敦賀県)が分割されて滋賀石川に属した時期に当たっていたためである。
 

 五等預科甲生には松田蔵雄が居る。他に井上泰蔵の名があるが、これは柳田国男の次兄、のちの通泰である。他の三名、すなわち呉、佐藤、森はこの時は四等預科乙生であった。
 

 翌明治十四年の名簿では、先の七名中六名、すなわち呉、佐藤、井上、石渡、松田、松原が預科四等生徒甲、森のみ預科四等生徒乙に留め置かれている。
 

 その後については『一覧』が欠けているため分からないが、先の述べた如く松田と中途で廃学した石渡只蔵以外の五名は明治十八年十一月に予備門を卒業しており、鶚軒はこの時には松原改め石渡慶藏に復している。
 

 さらに後は『帝国大学一覧』の名簿から追える。十九、二十、二十一、二十二年度においてそれぞれ一年から四年まで全員が進級している。五年目の二十三年度には呉以外は「卒業受験生」として名を連ねている。呉の名がなぜ欠けているかは不明であるが、二十四年度には研究科学生、つまり大学院生となっていることと関係があるかもしれない。大学での席次は変動が激しく上下定めがたいが、森篤次郎が常に末席近くであることは一貫している。歌舞伎への熱中が過ぎたのであろうか。
 

 ついでに言えば、土肥慶藏の修学歴について東大図書館の年譜にいう明治十八年予科入学は誤りで、同年は予科卒業である。さらに『土肥慶蔵先生生誕百年記念会誌』で医科大学卒業を二十六年としているが、これも誤りで二十四年のはずである。門下生や遺族が編集に関わっている記念誌にこのような間違いがあるとは思いたくないが、公的記録を参酌するとそうなるのである。