速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(補一)西野文太郎 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 少し以前、「速成学館前後―玉井喜作伝への補足」と題した記事を書いた。そこで田山花袋は速成学館に居た西野文太郎(森有礼刺殺犯)について触れていないと書いたが、これに関して宇田川昭子氏より、大正七年に発表された小説「田舎からの手紙」に記述がある旨、ご教示頂いた。ここに感謝の意を表し、以下に補足を行いたい。


 「田舎からの手紙」は大正七年二月の『新小説』に掲載され、その後『百日紅』及び『定本花袋全集第二十二巻』に収められた。『百日紅』は国会図書館のデジタル画像を閲覧できる。
 

 花袋(小説ではK)のもとに信州赤塩(A村)の青年が手紙を寄せ、それを読んだ主人公が当時を追想しながら思い出を妻に語るという内容である。青年は赤塩の知己三名、すなわち武井米蔵、渡辺寅之助、祢津栄輔にゆかりの者という設定だが、あるいは創作かもしれない。
 

 速成学館の名前は出ていないが、該当する部分を『百日紅』から引用すると、

俺が十六で東京に出て、英語を習ひに、麴町の番町の塾に行つた。さうさな。何処に当るかな。今の富士見軒のある通の裏あたりかな。すつかりあそこいらは変つて了つたんでちよつと見当がつかないが、何しろあそこいらだ。そこは小さな塾だつたけれども、そら、森文部大臣を刺した西野文太郎といふ人がゐてね。あの人が英語の先生で、よくスペルリングなぞを教はつたものだが そこにある日のこと、突然田舎丸出しの書生が三人英語を習ひに来た。

となっている。

 

 まず驚くのは西野が英語を教えたとされていることである。先に紹介した『刺客西野文太郎の伝』では漢学教師となっているし、示された経歴では小学校、漢学塾で学び、明治十二年に山口中学に入学したが、十四年には県収税課に勤務したとある。つまり英語をある程度学んだとすれば中学の時期であろうが長くはない。まず二年ぐらいであろう。


 一方、花袋はおそらく開校時もしくは開校間もない明治十九年に入学し、二十年初めに武井、渡辺と出会った。西野が上京、勤務するのはその年の二十年の夏である。花袋が野島金八郎を知り、また速成学館に入学したのは、西野赴任に先立つこと半年ほどであると思われるので、そうであればスペリングを教わったというのはありえた話である。
 

 小説では武井たちも西野から習ったように読めるが、時期がずれていることから脚色であることが分かる。それに武井は英語のみを勉強に来たわけではないし、武井日記からすると在校したのは三人ではなく祢津を除く二人が思われる。武井が去って程なく赴任した西野から、花袋が習ったとすれば、花袋は少なくとも二十年後半までは在籍していたことになる。