十等電信技手幸田露伴(三)官歴 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 電信局時代の幸田成行の名はこのころの官員名簿に見ることができる。国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できるものとしては『職員録』と『改正官員録』がある。前者は内閣官報局による出版で年一度、後者は博公書院から実に毎月刊行されている。武鑑の明治版といったところであろうか。姓名のみでなく俸給表なども掲載されている。注意深く月次を追えば、組織の変更なども見て取ることができる。これらの資料は渡辺氏も参考にしたようで、詳しくは「幸田露伴研究―再考・北海道時代」(国文学踏査20巻、2008年)に記述がある。


 露伴は明治十八年の夏に赴任しているはずであるが、例えばその十月の『改正官員録上巻』の工部省電信局の名簿には現れない。最低でも月俸十七円の者が記載されているので、対象外であったか、もしくは本局勤務者に限っていたのかもしれない。
 

 最初の出現は一年後、十九年八月の『改正官員録』である。逓信省電信局の十等技手十等下級俸の欄にある。上司の田中己作は九等中級、もしくは九等十八円の位置に在る。「技手」は判任官で同書の付表によると最高が一等上の八十円、最下等が十等下の十二円である。判任官の「技手」は、奏任官すなわち高等官である「技師」に比べて待遇に大きな懸隔があった。
 

 七月と八月の官員録に仕様の違いはないようなので、ここから登載が始まるのは露伴の事情によるものと考えられる。つまり「自筆年譜」とは矛盾するが、当初の一年は等外のような扱いだったのではないか。原籍地が書かれていないのは出版社の調べがついていないためであろう。後には東京と記されるようになる。
 

 明治二十年から仕様が改まり、任地や役職が分かるようになる。すなわち、『改正官員録甲』の二十年三月の版になって詳細が記される。甲は従来の上巻に相当する中央官庁の名簿であり、「下」又は「乙」は開拓使、県府庁及びその下部組織を対象としている。
 

 三月の名簿では函館逓信管理局の隷下に三等電信分局である余市分局があり、そこに分局長心得九等技手中の田中己作と十等技手下の幸田成行がいる。つまり局員二名の職場であった。もっとも露伴の語るところ(小林勇『蝸牛庵訪問記』)では、それ以外に二名の局員と雑務を扱う者も居たようであるが、いずれも官吏の員数には含まれない「雇い」なのであろう。


 この頃、管内の一等分局は函館のみで、二等が青森、小樽、札幌、根室である。一等局には十人以上、二等には五人ほどが配置されていた。露伴を函館で捕らえて説諭を加えたのは、この函館局の幹部であったろうか。
 

 二十年六月、田中は心得が取れて分局長になった。しかし等級は変わっていない。これは露伴も同様で、最後の掲載となる八月においても十等下である。遁走直後の九月の版にはすでに幸田成行は居らず、同じ等級の湊三治が後任として記載されている。湊は前月までは函館局の末席に名があるので、急遽後任として派遣されたのであろう。本人にとっては予想外であったかもしれないが、函館を離れるのを残念に思ったか、いずれ地方を経験せざるを得ないならば小樽に近い余市でかえって喜んだか。
 

 田中己作、湊三治はしばらく余市に居り、離任後も電信郵便業務に携わったらしく、しばしば名前が記録されている。田中は明治二十九年には札幌だが、そのあとは不明。湊は昭和五年出版の『逓信六十年史』に、明治二十六年開設の蕨局(埼玉県)の二代目局長として名が見える。田中や湊はかつての脱走局員すなわち後年の文豪と知っていただろうか。