十等電信技手幸田露伴(二)修技学校 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 露伴が余市に居たのは周知のとおり電信技手としての任地であったからである。露伴の評伝は塩谷賛氏の集大成『幸田露伴』が著名だが、これに限らずこの間の消息としては明治十六年夏に「電信修技学校」に入り、一年間学んだ後さらに一年の見習期間を東京で終え、余市に赴任したと書かれている。慶応三年生まれの露伴は十七で入学し、十九で赴任し、二十一で辞めた勘定である。


 修技学校については、渡辺賢治氏に詳しい調査があり「露伴の電信修技学校時代」と題した論考として纏められている(『国文学試論』18巻、2009年)。ここに引用された参考資料のうち読みやすいものとしては、財団法人逓信同窓会が昭和五十九年に刊行した『逓信教育史』があるが、その内容の多くを依拠したと思われる『帝国大日本電信沿革史』(明治二十五年)や、官報や法令集まで博捜して当時の状況を調べたものである。


 学校の当初の名称は単に「修技学校」であった。明治六年に開設され、十九年に改組改称して「電信修技学校」が設立された。従って露伴が入学したのも学んだのも電信の付かない「修技学校」である。電信修技学校もわずか一年で「東京電信学校」となりさらに「東京郵便電信学校」となった。その後の沿革は逓信同窓会のウェブサイトからも窺うことができる。この学校の遥か後身が現在のNTT中央研修所や郵政大学校(日本郵政)であるらしい。逓信同窓会も東京郵便電信学校の同窓会に淵源を持つ。ちなみに、『逓信教育史』は露伴を異色の卒業生として一節をその紹介に割いている。


 すべての露伴伝がこの一年だけ用いられた校名を記しているのは、おそらく本人がそう述べたからであろうし、当時もそう呼ばれていた可能性がある。学ぶ内容が電信技術に尽きる以上、当時の関係者が中身の知れない正式名の代わりに電信を冠して通称したとしても不思議はない。そもそも学校が置かれたのが工部省電信寮、後に電信局であるし、文書にも「汐留電信修技学校」とした例がある。


 修技学校は学校と行っても給費がある。現在の防衛大学校や気象大学校と同様、官吏として待遇されたわけである。給費は一律ではなく等級によって異なる。試験に合格してから正式採用に至るまでの一月ほどの間の成績によって最初の等級が決まり、試験によって累進した。給付額は時期によって異なるようであるが、『帝国大日本電信沿革史』によると明治十五年の規則改正では一等修技生で月六円である。おそらく昼食も給せられたであろう。修技中、局務に従事するため一時的に校を離れたときは給与が増えた。と言っても等外見習下級の如き扱いであろうから高くはなかった。露伴が府内で実習に携わった際はこれが適用されたであろう。


 修業年限は不定で、露伴のように一年就学、一年研修という風に固定されてはいない。ただし奉職義務があり、学校で学ぶにせよ局に勤務するにせよ「通算五年間」拘束される、とこれまでは考えられてきた。しかし、渡辺氏が法令(明治十三年の工部省布達)を当たったところでは、どうも卒業後五年間が正しいらしい。つまり卒業直後、技手見習になってから五年間が義務で、そうすると露伴は通説のように一年ではなく、二年を残して規則に違背したことになる。


 従来、入学以後五年と思われていたのは、制度上そういう時期もあったためかと推測される。実際『逓信教育史』に引用された遠藤政之助の談話では「五年間学校に留って義務年限を立派に済ました人も居」たそうである。遠藤の入学は明治八年であり、卒業後多少の実務を経て十二年に助教に採用されて以来、昭和に至るまで修技学校とその後身で教授職にあって数学教育を担当した。幾何や代数の教科書を幾つか著述している。
 

 露伴のように途中で辞めた場合はペナルティーがあった筈で、『逓信教育史』によると、規則として「病気やよんどころない事故で退寮を願う者、あるいは規則を犯して除員される者」は費用弁済を本人、または身元引受人に求める。また「故意で他へ転身、出仕などする者はその庁へ抗議して相当の処分をする。」となっている。露伴の場合はどこかへ就職したわけではなく、父の紙屋を手伝ったというので、ここへは抗議ではなく弁済を求めることになろう。弁済額は一年分の費用六十円を上限としたようだが、支払ったのだろうか。
 

 ところで先に紹介した遠藤の回想では、露伴の数学成績は並であったと述べられている。『逓信教育史』中の小伝では卒業時の成績を二十人中十六位としている。これは先んずる『逓信協会雑誌』(昭和八年十二月)に掲載されたインタビューにも同様の記述があり、おそらくこれが大本であろうと思われる。渡辺氏も同記事を引用している。
 

 インタビューと言っても露伴は何も語らなかったに等しい。記者の名は記されていない。一応、記者との間のやり取りが書かれてはいるが、病気の所為もあって口数が極めて少なく、途中を埋める記者の文が露伴の成績に言及し「電信修技校の卒業生名簿を検べると、十七年七月卒業生約二十名中十六、七番となっている。」とある。つまり記者は内部の資料によって知ったわけである。おそらく他もこれに依拠しているのであろう。