速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(補二)速成学館の位置 | 醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 玉井の評伝には、西野の評判は今一つであった様に書かれている。極端な国粋主義者であったことが理由と言うが、証言が残っていればともかく、さもなければ森有礼刺殺の誘因が大廟の不敬であったという風聞、報道から後付けた可能性もある。犯行直後に斬殺された西野の思想的背景など、当時でさえ知り難かったのではないか。先に紹介した『刺客西野文太郎の伝』には、吉田松陰ほか勤皇愛国の士に傾倒したぐらいの事は書かれている。同じ山口中学に三、四年遅れて学んだ国木田独歩もある時期松陰を好んだが、それといかほどの違いもないように思える。西野も英語を教えていたとすれば、奇妙な暗合である。


 ところで、「田舎からの手紙」によれば、速成学館は「富士見軒のある通の裏」にあったという。孫文が演説したり、樋口一葉が久佐賀義孝に誘われた富士見楼が有名だが、これは飯田橋近くの別の店である。富士見軒を調べると明治十九年に富士見町一丁目十九番地に開業した洋食店であることが知られる。大学関係者の会合なども頻繁に開かれていたようなので、格式もあったのだろう。
 

 大正九年の電話帳でも同じ住所にあるので、「今の」富士見軒がどこからか移転したわけではない。これは現代の地図では九段南二丁目三番地に相当するようであるから、「富士見軒のある通」というと靖国通になりそうである。
 

 文章だけでは分かりにくかろうから、現在の地図に当時の町域を重ねたものを付しておく。



 

 地図からすると上六番町十二番地も下六番町十二番地も、靖国通の裏と言えないことはない。西野が来る前の住所である三番町六十九番は確かに靖国通に面してはいようが、いずれも富士見軒からはかなり遠い。また、靖国という大きな目標を差し置いて富士見軒云々というからには、ごく近傍になければいかにも不自然であるが、地図を見る限りそうとは思えない。

 

 そもそも小説である以上、妙な言い方になるが、フィクションが混じっていても不思議はない。そう考えると他のエピソード、例えば渡辺寅之助が発狂したとか、祢津栄輔が資産を蕩尽したといった記述の真偽にも留保が必要ではなかろうか。この辺りは先行研究があるのかもしれないが、今は精査していない。