速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(八)札幌農学校 | 醒餘贅語

醒餘贅語

酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 玉井を札幌に呼んだのは酒匂常明であると本人が言っている。玉井の在京当時、酒匂は農商務省勤務で、管轄下の駒場農学校および合併改名後の東京農林学校で助教、教授と昇進していた。現在の東大農学部である。明治二十年に教授に昇進し、間もなく官等は下ながら席次では次席の幹事を兼務しているのは手腕があったこと示すのだろう。玉井との具体的な接点は不明である。なお、この人は柳田国男が初めて官途に就いた際の上司であった。最後は実業界に転じ大日本精糖の社長となるが、疑獄に連座して自ら命を絶つ。


 泉氏の「文献に見る玉井喜作」によると、玉井は二十一年六月二十三日付で札幌農学校に雇用され二十四年三月まで在任した。身分は雇教員である。これは各省庁の「雇員」「雇(やとい)」に相当する定員外の官吏であり、現代で言えば契約社員に当たるのかもしれないが、常勤職である。泉氏によれば年俸三百六十円であるから月給三十円。当時の俸給表を参照すると奏任官最下等には及ばないが、判任六等相当である。決して高くはないが、例えばこの少し前、余市に居た十等技手の幸田露伴の給金が十二円らしいことを考えれば、まずまずと言い得るのではないか。


 札幌農学校もこの頃は、道政の変遷に応じて大きな影響を受けたようである。すでに開拓使は無く、三県時代を経て道庁が設置されており、農学校も農商務省から道庁の管轄下に移っていた。ある程度の経緯はウェブ上でも公開されている『北大百二十五年史通説編』からも窺えるし、人事は『改正官員録』(地方官なので乙の巻)にも掲載されている。


 玉井が着任した明治二十一年中頃の名簿では、校長は空席で教授兼幹事の佐藤昌介がその事務を取り扱っていた。教授はほかに須藤義衛門が居るだけである。助教が十名ほどで、中に太田(新渡戸)稲造の名もある。翌二十二年には校長として橋口文蔵が着任し、八月に教授定員が十名に拡充された。実際この前後で教授の員数が三名から八名になっている。もっともその多くは判任官の助教から、奏任官である教授への昇任であるから、待遇改善という要素が大きかったのかもしれない。新渡戸は助教に据え置かれているが、帰朝した宮部金吾は教授になっている。


 この名簿には玉井の名だけでなく、この頃はまだ雇用が続いていて日本人教授よりも高給を食んでいたはずの外国人教員の名もない。従って、玉井が殊更に冷遇されていたわけではなかろうと思うが、農学校における自身の立ち位置に考えを巡らすことはあったのではないか。相応の給与を取りながらドイツ語学校を開設している動機にも関連するかもしれない。


 玉井がこの地に開いた学校については、わずかに雑誌『北海道』(13号、明治23年7月)の記事があるばかりである。名称は「独逸語講習所」、二十一年九月すなわち着任直後の設立である。教員一名生徒十名、年間授業料収入が百円弱とされている。所在地の北一条西七丁目三番地はおそらく自宅で、そこで私塾を開いたというのが実情だろうが詳細は分からない。


 先の湯郷氏、大島氏の評伝とも退職後は農業に携わって上手く行かなかったと書かれている。また商売にも手を染めたともあった。農業は不明だが、商業活動の一端は二資料から窺える。一つは、現在の札幌商工会議所の前身である「商業倶楽府」が二十五年一月に発刊した『北海之商業』で、巻末の「府員姓名」に玉井喜作の名があり常議員に数えられている。


 また、同七月刊行の『札幌案内』(小中章二編輯、聚文堂)には玉井喜作の広告がある。屋号が「国本屋」で、山口県物産大販売、諸国煙草仲買小売と銘打ち、扱い品目として煙草の他、布地、鉛筆、缶詰、洋酒などが記されている。住所は南二条西三丁目で今の札幌駅前を南に下って、狸小路に至るあたりである。同書の学校の章には「独逸語講習所(北一条西七丁目)」も記載されているので、兼業していたのであろう。


 商業クラブにおいてそれなりに存在感を示しているらしいのは、学識者として重んぜられていたのか、あるいは商業者としても一目置かれていたのか、そもそも資本をどうしたのか、そのあたりは依然として不明である。


 やがて玉井は二十五年の暮近く、シベリアに向かって発つ。