速成学館前後 ― 玉井喜作伝への補足(七)教師達・刺客西野文太郎 | 醒餘贅語

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酔余というほど酔ってはいない。そこで醒余とした。ただし、醒余という語はないようである。

 東京速成学館の教師について分かることは少ない。二十年二月の規則改正願では教員数が三となっているが、武井の日記に名が見えるのは教頭の玉井と、村山教諭のみである。三月十二日は何人かの教師についての批評があるが、名前はない。新旧の漢学教師、物理、および英学の教師を評しているが、これが武井の履修した科目なのだろう。他にドイツ語、数学、化学を誰かが教えていたはずである。三名では賄えまいから、時間雇いの教師が他に居たと思われる。


 村山教諭が何者かは不明であるが、玉井に近い人物とすれば村山恒太郎ではないかと思う。村山は明治十九年から二十年にかけての『第一高等中学一覧』によれば本科の医科二年に居る。これは最終学年であり、賀古桃次や山田鉄蔵と同級である。この年の名簿ではそれぞれ「加古」「銕蔵」となっているが、この手の異同は多い。
 

 次に『東京帝国大学一覧』明治二十二年から二十三年にかけての版では、医科大学(医科のみ四年、他は三年が年限)の第二年に村山と山田が居る。賀古は一級先んじて三年生である。細かい履歴を調べてはいないが、村山は後に愛知県の岡崎支病院(現在の岡崎市民病院)の院長を務めている。当病院のウェブサイトに示された沿革では歴代院長に入っていないが、当時の名簿にはあるのでこれは病院の調査漏れかもしれない。それはともあれ、村山医師はドイツにも留学し明治三十四年にはベルリンの玉井家を訪問したことが知られる(先の泉健氏「藤代禎輔」)。
 

 確たることは言えぬにせよ、この村山教諭が村山恒太郎である可能性はそれなりに有る。何を教えたかは不明だが高等中学医科では、科目としてドイツ語はもちろん、第二外国語も物理も化学も数学も一通り習っている。


 武井の日記には出てこないが、西野文太郎が速成学館で漢学を教えたことが知られている。玉井の同郷の友人で、二十二年の憲法発布の日に文部大臣森有礼をその屋敷で斬殺し、自らも切り殺された男である。殺害の理由は森有礼の神宮大廟における不敬に憤ってのこととされる。そのような極端な国粋主義であったため、洋学を志す生徒からは不人気であったと湯郷氏などは記すが、そのような証言があったかは不明である。
 

 西野については死後ほどなく出版された『刺客西野文太郎の伝』(岡田常三郎、書籍行商社)に簡単に記してある。もっとも信頼性は不明である。それによると西野は二十年夏に上京し、やがて東京速成学館の幹事兼漢学の教授となり、間もなく辞して二十一年三月に内務省土木課の雇員となったとある。この書に玉井の名は出ないし、学館の住所が上二番町となるなどやや疎漏と思われる記述もある。時期からして武井の日記に現れないのは当然として、花袋が西野文太郎に接した可能性は有るのだろうか。筆者の記憶の限りではあるが、花袋が文中で触れたことは無かったように思う。