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くさかはるの日記

小説『常世の君の物語』と『現世(うつしよ)の君の物語』を手掛けています。
ここでは日常のなんでもないことを書き綴っております。

勢いよくガスの抜ける音がして、バスが止まった。

朝の通勤時間帯、バスは満員で、乗客は窓の外に視線をやったり、手元を見たりしている。

それを正面の大きな鏡で確認してから、律はバスを発車させる。

 

律が路線バスの運転手になったのは、この春のことだった。

通常の運転免許を「一種免許」といい、バスやタクシーなど有料で人を乗せて運ぶ際の免許を「二種免許」というが、バスの運転にはこの二種免許が必要で、律は今の会社に入ってから研修を受けて取得した。

本当は高速バスの運転手になりたかったのだが、いきなりはなれず、まずは路線バスの運転手を経験してからでなければいけないらしい。

そのため、律はこうして毎日路線バスを運行しているというわけだ。

 

律の両親は、律がおさないころに離婚しており、律はほぼ母子家庭で育った。

母はジムのトレーナーをしながら女手ひとつで律を育ててくれた。

そんな母を早く支えたくて、律は大学には行かずに働く道を選んだ。

その選択に後悔はしていない。

人手不足と言われるバスの運転手だが、うちの会社は別で、若い人に嫌われがちな長時間労働というデメリットを、独自のシフト制にすることで改善し、この地域では人気の仕事となっている。

確かに、好きな時にトイレに行けないだとか、常に人に見られるというストレスはある。

しかし、そういうことに目をつむれば、常時空調は効いているし、汚れない仕事だし、いいことはあると思うのだ。

 

たまの休みに母が聞く。

「後悔していないか」と。

律は決まって答える。

「人生なんか後悔ばかりだけど、でも前向きに生きないともったいないからな」と。

そうして母と二人笑い合うのが、律は好きだった。

 

それから40年が過ぎた。

既に母は亡く、ひとり暮らしの律は、今朝もバスを運転するために家を出る。

母の遺影に手を合わせて、笑顔を作ってから「立派に勤め上げてみせるからな」とつぶやく日課をを忘れずに。

 

 

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壁一面に大きな姿見が埋め込まれたスタジオの隅で、カナはひとり振付の同じ個所を練習をしていた。

スタジオでは、今流行りの『漫画インク』という曲が流れている。

今日は1時間も早く来たので、カナの他には誰もいない。

東北の片田舎にあって、ダンスを習うことが出来るのはこの地域にこの教室しかなく、カナは小学生の頃から親の勧めで通っていた。

そのせいか、カナは誰よりダンスがうまかった。

母はいつかプロのダンサーになってよ、などと言う。

まんざらでもないカナは、「えー、なれるかなぁ。競争、すごいんだよ」と返すのだった。

 

高校卒業とともに、カナは上京した。

経済的な理由から大学へは行かず、東京でアルバイトをしながらプロのダンサーを目指すことにしたのだ。

しかし、カナはすぐに壁にぶちあたった。

地方では一番実力のあるカナだったが、東京ではカナ以上にダンスのうまい子たちが沢山いたのだ。

自分は井の中の蛙だったのだと、身をもって知った。

ちょうどその頃、同じダンススタジオの講師と恋に落ちた。

デートの回数が増え、練習の回数は減っていった。

それから一年後、カナはその相手と結婚した。

同時に、カナには子供ができた。

カナはバイトをやめて家庭に入ることにした。

夫は、「いいよな、女は仕事やめれて」と冗談交じりに笑って言った。

この時、カナは夫に違和感を抱いた。

結局、5年後、その違和感が膨らむ形で二人は離婚した。

 

カナは、今、都内のジムでトレーナーとして働いている。

息子を育てながらなので、忙しいうえに生活は苦しい。

ひとりになると、ふいに涙が流れてくる。

多分、そろそろ子どもの父親となるような男性が必要なのだ。

いや、子供は言い訳だ。

何より、カナ自身のために必要なのだ。

マッチングアプリをなぞりながら、カナは電車の中でひとり泣いた。

イヤフォンからは、かつての流行歌である『漫画インク』がエンドレスで流れていた。

幼いころの瑞樹のお気に入りは、両親が買ってくれたおもちゃのピアノだった。

両手を大きく振り上げてめいっぱい叩いても面白い音が出るし、指先でそろそろとつついても面白い音が出た。

幼い瑞樹にとって、音楽は音楽という言葉を覚えるより先に身近にあった。

 

そんな瑞樹は、中学生の頃には独学で音楽理論を学び始め、高校生の頃にはパソコンで自ら作曲するまでになっていた。

女の子にもてたいという動機で楽器をはじめたようなバンド仲間とは異なり、瑞樹は一心に作曲に励んだ。

俺はあんなな奴らとは違うんだ、と瑞樹は思っていた。

そうして『インク』という一つの曲が出来上がった。

しかし、ネットでの反応は思った以上に悪かった。

ある日、「頭だけで作った曲って感じ」という書き込みがなされた。

瑞樹はこのコメントを呼んだ時、見知らぬ誰かにすべてを見透かされたような気がした。

瑞樹はとことんまで落ち込んだ。

それでも瑞樹は曲づくりをやめなかった。

俺には曲を作るうえで、決定的なものが欠けている。

そんな強烈な焦燥感を抱いたまま、瑞樹は曲づくりに励んだ。

そうして出来上がったのが、大学4年生の時の『漫画インク』という曲だった。

この曲をネットで公開したところ、みるみるうちにアクセス数が増え、盛り上がったファンによる応援コメントが山のように寄せられた。

なぜそのような反応が得られたのか、今度はそちら側の理由で悩んだ。

なぜ『漫画インク』は成功したのだろう。

俺が欠けていると思っていたものが、知らない間に身についたのだろうか。

一体それは何なんだ。

瑞樹は自問自答を重ねた。

自問自答をしては一応の答えのようなものをはじき出し、いや違うと思ったら再び自問自答を繰り返す。

そんなことを繰り返していたら瑞樹は知らぬ間に40になっていた。

今や知る人ぞ知る作曲家となった瑞樹は、今日も自問自答を繰り返す。

ときどき、幼い頃に遊んでいたあのおもちゃのピアノを奏でながら。

 

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今朝、私は夫と大喧嘩した。

きっかけは最近夫がさぼりがちなゴミ出しについて、私がしつこく問いただしたことだった。

「お前の叱り方さ、嫌味や過去の事を持ち出して、なんかうっとうしいんだわ」

夫はそう言って仕事に出かけた。

家に一人残された私は怒りが収まらず、家事をしながらずっとむかついていた。

なぜ叱っている私の方が偉そうに言われなければならないのか。

何度考えても夫の言い分に腹が立った。

 

洗濯物を干し、家じゅうに掃除機をかけ終わり一息つくころになっても、私の怒りはおさまらなかった。

こんな時は、何か自分を甘やかすイベントが必要だ。

そう思った私は、ちょっと電車で遠出をして、高めのランチを楽しむことにした。

スマホでレビューを見て選んだ、はじめて入る店だった。

本日のおすすめを選んでみたところ、それはなんということはない、シンプルな唐揚げ定食だった。

多少がっかりしたものの、雰囲気だけは良い店だったので、私は勢い食後のコーヒーも注文した。

するとそのコーヒーが思いのほかおいしく、私はウェイターに感想を述べるまで上機嫌になっていた。

 

お腹のふくれた私は、来た道にこじんまりした映画館があったことを思い出した。

店を出て寄ってみると、果たしてブームが三周ほど過ぎた映画が上映されていた。

尖った映画を見る気分でもなく、泣きたいわけでもなかった。

恋愛に酔いしれたいわけでも、冒険したいわけでもなかった。

消去法から、私は動物の出てくる感動ものの映画をチョイスした。

映画自体は予想していた通り、動物と人間の交流を描いた心温まるものであった。

感情がささくれなかっただけで、今は十分。

私は帰りに本屋に寄り、積み上げられていた中から文庫本をいくつか選んで買って帰った。

それをSNSにあげたりしているうちに夕方になり、洗濯物を取り入れる。

夫が帰ってくるまでゆっくりと夕食の支度をして待つ。

夫の機嫌は直っているだろうか。

沈みゆく夕日をベランダから眺めながら、私はその写真をSNSにあげるのだった。

 

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スマホの通知が鳴る。

なんだ、ニュースか。

このところの俺はいつもこんなふうである。

 

というのも、先日、弟の勧めで、人生ではじめてマッチングアプリに登録したのだ。

弟によると、最近の若者はみんな使っているとのことだった。

アプリの使い方は簡単で、写真を設定したら、あとはプロフィールを埋めるだけ。

準備ができたら女性の中から適当に相手を選び、いいねを押す。

運が良ければ相手にいいねをしてもらえ、そうしたらマッチング成立、晴れてメッセージのやりとりが可能になる、というわけだ。

ちなみに男性に限り、メッセージのやりとりは有料である。

マッチングアプリというのはそうやって儲けているそうで、他人の恋愛を盛り上げるだけ盛り上げて金をとるなんて、いい商売してるよな、と思う。

 

俺は毎日マメにいいねを押し続けた。

しかしまったく反応が見られなかった。

どうやら、いわゆる美男美女にいいねが集まるようになっているようであり、イケメンでない俺などは写真を見ただけでスルーされてしまうようだった。

なんという不公平だ。

人間、外見より中身だろう。

とスマホのこっち側でひとりむなしく自論を展開しても誰にも届かない。

とにかく第一印象が大事だと気づいた俺は、ヘアサロンに行って髪と眉を整えてもらい、ちゃんとした写真を撮ってもらい、そのうえでプロフィールを充実させて相手の出方をうかがった。

しかし、いっこうに反応は得られなかった。

結局、俺は馬鹿馬鹿しくなって、いいねを押すのをやめた。

よかったことと言えば、身ぎれいになった分、会社の部下から「彼女でも出来たんですか」とはやし立てられたことくらいだ。

ああ、どこかに疲れた俺を癒してくれるかわいい女の子はいないものか。

すれ違うカップルをうらやましく思いながら、今日も俺はスマホの通知を待っているのであった。

 

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