「秋葉原無差別殺傷事件、これは現代版『罪と罰』である」
この見出しは週刊文春のものである。ドストエフスキーにしてみれば心外ではないか。
秋葉原無差別殺人事件と、リザヴェータ殺害事件では大きくスケールが異なる。スケールとは殺害者の、殺人に対する思慮についての程をさす。被害者の数で言えば、秋葉原事件では17名(うち7名死亡)、一方ラスコーリニコフの方はたった2名である。しかし私はラスコーリニコフノ方がスケールの大きい殺人だと考えている。
加藤容疑者は犯行理由について「現実社会でもインターネットでも孤独になり、世間に注目されたかったから」と供述したことになっている。ラスコーリニコフが殺人を犯した理由は「自身に法を踏み越える権利がある」「一つの罪は百の善行により報われる」というように、彼なりの殺人理論に基づいている。さらに犯行後に彼はソ-ニャとの愛を知り、キリストの信念を持ち、更生する(ことになっている)。その過程での苦悩が罰だろう。それに対し、加藤容疑者の更生は定かでなく、罰がただの死刑に終わることも考えられる。
つまり加藤容疑者は、犯罪計画も思考も至極浅いのである。簡単に言えば、ただのストレスの発散としての殺人であり、事件が自分に及ぼす影響について「世間を騒がせる」ことしか考えていない。理由なき殺人である。
ただし、その理由なき殺人心理の根底には「自分に踏み越える力があるか」という、ラスコーリニコフと共通する好奇心があるように思う。それは人間普遍的に持っているものではないだろうか。たとえば幼少のころに嫌なことをされてムカついた、というとき「殺してやる!」と思ったことがある人は少なくないだろう。大人になっても、鬱の極みに陥ったときに「殺したい」と思える感情は理解できなくはない。
殺人を犯すと考えることから、実行へ一歩踏み出すこと、この一歩のスケールが、ラスコーリニコフノ方が大きいと思うのだ。なぜ異なるかというと時代の変遷ではないだろうか。マスコミは今回の一件を通じ「格差社会」「インターネット匿名掲示板」の及ぼす影響、と報じているが、殺人心理自体は十九世紀ロシアにもあった。普遍的である。しかし二十一世紀の私たちは、幼少からテレビゲームなど視覚的な映像で殺人を身近に見ている。インターネットもメジャーになり、視覚的な殺人の情報が溢れかえっている。だから殺人を身近なものとして錯覚してしまい、「一歩」のスケールが小さくなってしまうのである。