私は小学生のころから公立の小学校教諭に憧れ、目指してきた。

しかし簡単に言えることではないがライターにもなりたかったため、教職専門の大学と文芸系の大学を受け、受かったほうへ進学しようという話になった。そして結果、現在はライターを目指している。


 大学受験の失敗以外にも、小学校教諭への道を断念した理由があった。それは、最も大事と言えることで分からないことが鬼のようにあり、とても教えられる立場にいないからだ。


 まず、どうして今、私が生きているのかということ。生きている目的だ。答えがなければ死んだっていいじゃないか。そこをなぜ敢えて、お金も手間もかかる「生きる」という選択をしているのか。実際考えてしまうのは自殺は親不孝だからとか、大切な友達のためとかという、きれいごとなのだが、もし今親も友達もいなく孤独になったら本当に死ぬだろうか――そうは思えない。それはなぜか。


  つぎに、なぜ人を殺してはいけないのかという質問に対する、最も分かりやすい答え。分からないことではないが、根本的な何かがあって、一言で言い切れるはずなのに、その何かが分からないのだ。言おうとすれば、「ドストエフスキーの『罪と罰(岩波:上中下)』を読んでごらん」、になってしまう。説明に世界三大長編作分かかってしまう。一言で説明できない問題なのかもしれないが、それを上手く6歳児に言うとしたら、どうすればいいのだろう。


 そして、一番大事なことは何かということ。「時間を守ること」「学問の追究(私はそうは思わない)」「人に優しくすること」「いい恋愛をすること」など、多くの先生が自分の経験をモトにした自分なりの哲学を持っているようで、箴言を語る。しかし私は未だ、人生で一番大事なことが何か、結論が出ない。上記の案も、2番目以外間違っていないように思うが、全てに当てはまるような一貫した何かがある気がするのだ。それを見つけてスッキリしたい。

 今考えているのは何となく、「自分らしい人生を歩むこと」だと思ってはいる。何故なら人間同じ人は1人もいず、即ち皆、自分自身が尊い存在だと思うからだ。他人とまったく同じ感動や痛みを共有することはなく、過ごした月日で出会った人、言葉、風景、感情一つ一つの無限な要素で人間が成り立つ。だから人が「感動」するというのは個性に世界が触れることであり、それをいかに表現するか、というところに独自の生命が宿るのでは、と思うのだ。

 ただし、個性=良い物、と言い切れる根拠が見当たらない。だから胸を張って児童に言っては後悔しそうだ。


 まずはこの3つをことあるごとに真剣に考え続け、自分の哲学を見出したい。それには人生1回分かかりそうなので、来世こそ、子供たちに立派な教育をしてやりたい。


 そしてこの答えを発表する日のために、ジャンルに拘わらず人を助ける文筆業に就きたい。

 1つは、「長いものに巻かれない」という信条の下、マイノリティの声に弾力をつける文章を書いていきたい。そもそも私がセクシャルマイノリティだから考え付いたことではあるが、人は潜在的にマイノリティーを弾圧しがちだ。いや、しすぎだ。マイノリティを擁護しつつ自分をも守っていきたいのだ。

 他には、小学生に時事問題を分かりやすく伝える池上彰氏のように、中学生~中堅高校生をターゲットにした社会問題解説をしたい。また、いつかは教育ジャーナリストになって、i以前このブログに書いたことをもっと研究して発表したい。


 夢は尽きない。私が生きている理由は、もしかしてこれだろうか――

 2回目の記事で日本の教育を変えるべきだと主張したが、読み返すとまったく説得力がないので補足をする。

海外の事例を提示し日本と対比させよう思う。


 まずPISA(※下記注)の結果世界一の座を獲得したフィンランド。PISAとはOECDが開発した学習到達度調査のことだ。そもそもOECDとは第二次大戦後に欧州経済の復興を目指して出来たもので、EUができ人々が国境を越えて移動するため「共同の知」が求められてPISAができたのだ。つまりフィンランドはここ数十年の時代の流れを先取りした、といえよう。

 

 そのフィンランドの教育の基本情報を説明すると、まず7歳から16歳まで総合学校で義務教育を受ける、その後普通科高校か職業学校を選択する、というシステムになっている。1クラスの人数は十数人。数人ずつのグループで助け合いながら学ぶ方式だ。


 ではフィンランドの教育特色をいくつか挙げる。まず基本的にテストはしないということ。義務教育が終わるまで子供を比べるマネはしない。習熟度別授業も効果がないとして、85年に廃止したという。次に先生は子供に勉強を強制させないこと。日本と違って、結論や正解を覚える勉強はさせないというのだ。そのため答えでなく考え方を教えている。また日本と教育への熱の入り方が違い、先生は皆修士号を持っている。研究のために大学教授並みの研究室を持つ小学校もあるそうだ。日本の私学と重なるところといえば落ちこぼれをつくらないために補習も行うことぐらいだろう。しかし、決定的に違うところがあり驚いた。それは授業料も教材費も無料というところだ。国が教育に金を掛け、家庭環境で格差が生まれないようにしているのだ。


 なんだか子供たちからしてみれば勉強に関心が湧いてきそうな教育だ。

関心が湧く教育といえば、ドイツ人が提唱しオランダで普及している「イエナプラン教育」というものもある。では次にそのオランダのイエナプラン教育について言及しようと思う。


 イエナプラン教育とは、一人ひとりの子供の発達に主眼をおく自立学習のことだ。基本単位はクラスではなく、3学年の異なる年齢10人以内で作る「ファミリーグループ」である。子供たちが車座になる。「なぜ」をみつけ、答えも自分達でみつける。一回目の記事“ネットの魔力”で書いた危機も避けられる。さらに子供たちが子供たちに教え、教えられるのだ。本質を理解することが求められる。一番重要な科目は「総合的な学習の時間」だとされている。


 日本でも「総合的な学習の時間」内での導入の可能性はある。ただし、このイエナプラン、私見を述べると子供間の学力差が気になるのだ。自ら学ぶ方法では、ファミリーグループによって学力差が顕著になりそうだ。確かに子供の発達に合わせた教育とはいえるが、最終的な学力到達地が決められたグループによって変わるというのも、不公平な話かと思う。


 以上フィンランドとオランダの事例から、日本の教育が、いかに人生に関係のない点取りゲームであるかが痛切に解る。OECDの事務総長グリア氏は日本の教育をこう語る。

 「多くの国の労働市場から既に消えつつある種類の仕事に適した人材育成」と。

なるほど、記憶させる詰め込み型勉強は、確かに一斉労働、機械労働には向いている。でも時は2008年。そんな仕事は発展途上国に……行末はロボットに、まかせるべきだろう。


(※注:数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力という応用力を測る問題。暗記では対応できず、覚えたものを利用して判断できる力を問いている。)


※次回か次々回か・・・いつの日か(笑)、今回の続編である、下書き中の「ゆとり世代は悪くない、ゆとり教育も悪くない」を掲載します。前も言いましたが……。

 最近新書をよく読む。中でも浅羽通明著『右翼と左翼』という本は、現在の我々の所在を明らかにしてくれるような、歴史を紐解いてくれる本で、とても参考になった。是非お勧めしたい。

 

 ところでこの新書というものは、最近ブームのようだ。むしろブームも終焉だろうか。『バカの壁』から始まって、多くの書店で表出されている。本の種類の中で最も売れ行きがいいのはやはり、新書、だそうだ。


 しかしこの新書ブーム、終わりが目に見えてしまうのも明白である。なぜなら新書の顧客の多くは団塊の世代だからだ。団塊の世代が教養として知識を得るために買っている。とすると、あと4~5年も経てば、その分老いるわけで、その世代がその時文字を読むだろうか。というわけだ。


 

「本を読もう」――小中高問わず、学校の先生は口を揃えてこう言う。驚いたのは最近、ラジオでのこと。「本を読むと、顔つきが変わります。知的な顔になります。みなさん、本を読みましょう。」といったCMがあった。それが書店や出版社のCMではなく、日本国語協会やら何やらのCMだったから驚きだ。


 「本を読む」という定義が思いの外定まらないから困る。一般で使う「本を読む」は、「活字を追う」という意味なのか、「文学作品に触れる」という意味なのかわからない。私は「文学作品に触れる」の意だと勝手に解釈している。なぜなら、後者の意味なら漫画の持込が校則で禁止されないはずだからだ。漫画だって立派な活字に基づく作品である。それを教師は「想像力の欠如へつながる」など、漫画をくだらないものとして扱う。だから禁止する。しかし新書やライトノベルは禁止されない。


 新書は教養へ繋がるからともかくとして、ライトノベルは漫画と同等、むしろそれより教育に悪いと思う。漫画は絵に美術を感じることがあるが、ライトノベルは文章をすぐに「・・・」などでごまかす。筆舌に尽くしがたい感情を表現するのが、文学であり芸術であるはずだ。“読んでて面白ければそれでいい”のなら、漫画と同じではないか。「本を読もう」この台詞の「本」は一体何なのか、活字が組んであれば何でもいいのか、それとも文学作品のことなのか。


 そのどちらの意であっても、私は不満だ。まず前者なら先述の通り、ライトノベルが含まれてしまう点。そしてそれが「ライトノベル=文学」という大きな誤解を喚起するから不満だ。

 そして後者なら、文学作品は強制されて読むものではないと考えるからだ。文学作品を書くことは、文芸だ。芸術だ。「絵画を見よう」「音楽を聴こう」は言わないのに、「本は読もう」?教科書で扱われる作品を読んで、生徒が感銘を受ける。そこから他の作品へと視野を広げていく。それが最良のはずだ。そのためには教師がいかに文学の面白さを生徒に伝えるか、にかかっている。なのに「本を読もう」――責任逃れもいいところだ。


「本を読みましょう。人間性が豊かになるから。本の中で、色々な人間に出会えるから。」そう言う気持ちもわかるが、文学は強制されて読むものではないのである。強制されると、誰もが必ず不信感を持つ、つまらないと思う。つまらないとすぐ飽きる。その積み重ねで、活字離れが起こる。もしくはライトノベルファンが増える。この蟻地獄にどうして気付かないのだろうか。


先生、たかが先生の言葉で読書をススメないでください。