このブログの一番始めの記事は、私のネットに対する文句のようなものだった。それから現在まで、自分に関して大きく変わったことといへば、大学に入学したということ。そしてそこでジャーナリズムの授業を受けて、考えが大きく変わってしまった。

 ネットに呑まれてみよう。そう思わざるを得ない。一回目の記事を書いた3月終わりから4月始めに関しては、ネットなんてただの道具でしかあらず、人の趣味の一環だと思っていた。30年後も40年後も、ネットへの危険性は今と同じように語り継がれ、今と同じように人はネットを利用しているだろう、と考えていた。

 けれど、今は違う。きっと、ネット中心社会になる。日常生活全般が、ネットに支配される。ネットに支配される、ということが「怖いこと」だと考えていたが、それも違うと思うようになった。所詮人間が作ったものだ、人間を超えることはない、恐れる必要はない。プライドも恐怖もかなぐり捨てて、支配される側になってみれば、逆に楽なのかもしれない。


 フランスでは既に、日本のパソコン画面のようなものではなく、紙状になったスクリーンのような形の画面が製造されているという。その画面に新聞記事やらニュースやらが自動的に映され、世間のニュースの追加とともに画面の中が更新されていく、というのだ。パッパッと切り替わっていく。新聞がなくなることで、地球にも優しい、お財布にも優しい。(画面は高いが)


 高校2年の頃、英検の面接試験で「ネットでのニュースについてどう思うか」という質問をされ、当然ネットなんて趣味の一環だと考えていた私は「新聞記事なら広い紙上に多くの記事が載っていて俯瞰できる。記録(スクラップ)も出来る。PC上のニュースを見るにはクリックして記事を広げる必要があり、自分の興味のある記事ばかりを見るようになってしまう」という趣旨のことを答えた。


 でも、呑まれてみてしまえば短い時間で簡単に世の中の動向をつかめる気がする。いや、私がどうこう言う前に、そういうそのスクリーン中心社会へ変わるのだろう。変わる。産経新聞も夕刊をなくし、私の家も秋からは新聞をとらないことにした。今は、スクリーン媒体社会への過渡期だ。


 ・・・ただ、前回の記事で述べたように、私は教育問題の記事に関してはスクラップするようにしている。かれこれ1年以上だ。きっと1世紀後には、一人ひとりが専用スクリーンでも持って気軽に保存できたりするのだろうが、過渡期の今、スクラップも保存も出来ない不都合に陥っている。

 未だにきちんと社会勉強をつんでいない私にとって、最も興味深いのが「教育問題」である。

なぜなら欲しくもないのに必然的についた「ゆとり世代」という肩書き。この言葉が乱用され、オジサン方にくどくどいやみを言われることにカチンときたからだ。


 教育ジャーナリスト渡辺研氏の教育学参考書を読んだ。教育問題に関心があったので、高校一年次からメディアをチェックはしていたが、所詮マスメディアの記事は都合のいいものばかりだ、と認識させられ、本当の今ある問題に直面できたような読みごたえある1冊だった。


 そこで、私が今の教育を改革できるならどうするかなぁ~と半可通なりに考えてみた。

まず、高校入試における内申書の提出をなくす。自分に高校入試の経験がなく、システムを正しく理解している自信がないので大きな字では書けないが(笑)、どうやら高校入試では中1~中3の成績表が合否に関係するようだ。だから、中学生にして大人にゴマをすったり、受験目当てで生徒会に入ったり、自分の利益のために行動を起こすという歪んだ性格が育まれてしまうというのだ。


 さらに大胆なことを言ってみる。今の定期テストを廃止してしまおう

赤点スレスレ、よく卒業できたものだと我ながら感心するほどの成績の私が言うのは説得力に欠けるが、渡辺氏の意見と睨めっこして出した結論なのである。例えばこんなことがあった。高校の時、当然万人周知のボキャブラリーとして会話内で使った“アウフヘーベン”が、なんと通じなかったのである。倫理の授業でも扱われたのに。それも相手は定期テストでトップクラスの高得点の友人なのだ。また彼女には、本の批評をしたり感想を述べているときに、なぜか私が唯物論、唯物史観を一から説明しないと通じないこともあった。学んだことのほとんどが丸暗記で、テストが終わればすぐに忘れるらしい。


 まるでテストが点取りゲームだ。では推薦合格はゲームのご褒美みたいなものだ。


 この現状を避けるために、今の定期テストを廃止し、新しく「論文テスト」を施行するのが私の提案だ。国立大の入試のように、英語は英作文・日本語訳、数学は証明や記述式や図示etc…、といった具合にである。今日の教師の多忙データから考えて、そう多くは出来ないだろうから1学期に1回、のペースでどうだろう。もっとも、途中経過で中だるみが見られる恐れがあるので、頻繁に論文でない小テストを行うことが前提である。「論文テスト」では、丸暗記では通用しない、本当に学問の本質が理解できているかが露呈されるのだ。


 こうすれば、生徒達は頻繁の小テストにより、理解度の推移が目に見えて把握できる。長い目で見れば論理的思考力も文章力も養われる。うまくいけば学問の意義をも認識できる。

「何のために勉強してるの?」

「いい点とって、いい大学行って、いいとこに就職したら玉の輿に乗れるじゃん(^皿^)b」

こんな答え、友達であっても聞きたくなかったのである。

教育委員会の職員さん、何のために勉強を教えているんですか?と聞きたい。


※次回か次々回か・・・いつの日か(笑)、今回の続編である、下書き中の「ゆとり世代は悪くない、ゆとり教育も悪くない」を掲載します。


 格別気が置けない友人から、今日、mixiに招待された。むやみに流行を追わない彼女が入会したということは、世間が(少なくとも同級生が)mixiを「生活の一部」と承認し、生きていくために入会せざるを得なくなったのだろうと判断した。よって、私は年度始めにあわせ、ついにあの畏怖していた巨大ネットワークに足を踏み入れることになったのである。


 なるほど恐ろしい世界だ。入会するまでは「なんて馬鹿馬鹿しい話題で盛り上がれるんだ。くだらない」と軽蔑しきっていた内容に、ただ会員になる手続きをしたというだけで「面白そうだ」と興味が湧いてしまった。恐るべき洗脳力である。インターネットの魔力、と呼べようか。実際、私はインターネットに計り知れぬ「魔力」があると思うのである。


 魔力の一つに、匿名性掲示板で見られる「人間の悪性を洗い出す力」を挙げたい。“ロムって”みると、掲示板の住民は言いたい放題。根も葉もない噂を平気で書き散らす。驚いたのは最近、小4女児が殺人予告を書き込み通告された事件だ。もともとは、ストレスの溜まった大人が匿名性を利用し、本来の自分より立場の高い人間なりすまし強がる。これがこの犯罪の原点となる心理だろう。しかし今日ではこの心理が子供にまで伝染している。その小4女児は「話題になりたかった」と話す。有名になったり目立ちたくなる心境は、以前から児童に見られる当然なものだ。ネットが普及した時点でこうなる予測は付かなかっただろうか。対策を立てられなかっただろうか。大人でさえ、悪の本性をさらけ出しているというのに。


 この時代の潮流を背景に現れたのだろうか、私はこの「悪性を洗い出す力」に対極して並べられるもので「ナルシシズムの助長力」を挙げる。むしろこちらの魔力のほうが恐ろしく、身の毛のよだつ思いがするのだ。これは先例とは逆に、自分の身分を明らかにしたプロフィール、ブログ、という類で見られる。中でも強いのがブームを呼んだ「前略プロフィール」というもの。決められた100の質問に、自分で登録し自分で答えていくのだ。つまり、自分に関するHP作り、のようなものである。よっぽど自分に自信がないと、自問自答を全国に披露する、なんて出来ないはずだ。


 これまでの二つの話を極端にまとめる。インターネットの世界に入ると人間は、匿名の時は悪魔になり、しかし身元を明かすと自分の良さを猛烈にアピールしたがるナルシストになりうる、ということだ。この両間にあるものは「名前(身元)」すなわち「アイデンティティ」の存在。この両間であるアイデンティティが象徴するギャップをユーザーは恐れていて、自己に関する全てにいちいち敏感に反応するのではないか。これをひとまず「アイデンティティを脅迫する魔力」と呼ばせてください。


 ところで、何の気なしに使っているユーザーにとっては便利なのがリンク機能である。恐ろしいのは「何を、何のために、どの程度まで調べるか」を考えずにネットを使う、主に子供がリンクに頼ることだ。書き手が同じ系統のページを貼っているわけだから、読み手はぼ~っとしたままクリックするだけで、知りたいような情報を知りたいようなくらいまで知れる。情報を知れた、と言う満足感は満たされるが、明確な目的無しに調べたものだから、実質中身を伴わない努力なケースが多いのだ。ただいたずらに、時間だけが過ぎていく・・・


 問題なのは、この話が「時間の無駄遣い」だけですまないことだ。何せ思考力は減る。想像力も減る。学ぶ意欲の低下にもつながる気がする。学ぶ意欲を略脱する魔力

 「『古典』って、何のために勉強するのー?ムカシのことが知りたいなら、ネットで検索すればばわかりそー。」

――10年後、こんな考えの子供が日本にあふれたら、ネットの魔力がどんどん展開していき・・・

 「どぉでもいいよー」

という投げやりな口癖が、50年後流行りそうで怖い。



私がインターネットを嫌っていたのは、上記の二つの魔力が主たる理由である。なかでもmixiを始めたくない理由はアイデンティティを脅迫する魔力の中の、ナルシシズムの助長力が、やたらと目に付いて鳥肌が立ったからだ。にも拘らず、私は今、mixiを利用して友達の輪を守りたい気持ちが勝ってしまっている。しかし過去に身の毛よだった記憶が歯止めをかける。この葛藤に今、負けそうになっている。


  インターネットの魔力に気付いた者は、もう侵されているのかもしれない。