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唐突にゲシュタルト崩壊はある種の瞑想の序章なのかもしれないという思いが湧いた。
ゲシュタルト崩壊とは、同じ漢字などをずっと書いたり見つめていると起こるあれである。
ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)とは、知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。幾何学図形、文字、顔など、視覚的なものがよく知られるが、聴覚や皮膚感覚においても生じうる。
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瞑想の結果、「全体性を感得する」という感覚が起こることはあるが、ゲシュタルト崩壊は全体性が喪失する。
真逆である。
なぜそれが繋がるのか。
シンプルに言えば、様々な瞑想の技法はまずゲシュタルト崩壊をもたらすことでわれわれの「日常意識」というかりそめの全体性、つまり虚構を解体することから始まるという側面があるような気がする。全然シンプルに言えてないが。
サマタ瞑想がそれに該当するのではないか。
止行、つまり心の動きを止めるためには何かに集中することが求められる。
その対象が呼吸であり、真言であり、念仏である。
例えば、呼吸に集中することによって心は静まり、場合によっては禅定に至る。
そこで、心が静まるというのはどんな状態なのかと考えてみると、ある種のゲシュタルト崩壊が起こっているのではないだろうか。
何と言うか、昔はよくあったことだが、映画館で上映中の映画が何らかのトラブルで止まることがよくあった。で、おっさんが大声で「どうなってんだ!」と叫ぶという光景が見られたものだが、ゲシュタルト崩壊とはそんな感じかもしれない。
どんどんわかりにくくなっているが、わかってください。
話を元に戻すと、何かに集中することでゲシュタルト崩壊が起こり、虚構が解体されるということだ。
そして、虚構は「個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう」
時として、この「再認識」があらゆるものを輝かせる。あるいは、無価値にする。
いずれにせよそれらは「等価」なものとして再認識される。
つまりわれわれは本来等価であるものに区別・差別をすることで、それが全体性であると認識しているということが浮上する。
まさに浮世である。
そんな浮世で今日もブラック企業や歪んだ歴史観によるアジア蔑視や不正選挙やタレントのバカ話やテレビドラマやオリンピックやガラクタを売りつけるCMやあれやこれやあることないことが泡沫の如く生まれては弾けていく。
そんな浮世を離れるためにも何かに集中することは悪くない。
と、ゲシュタルト崩壊から遠く離れた場所に行き着いたような気がしないでもないが、そろそろネット配信の「明日、ママがいない」を観るので、この辺りにしておくことにする。
この続きはあるかもしれないし、ないかもしれない。