
『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克
1/15(水)日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』に熊本の慈恵病院から放送中止の要請を出すとの報道があった。
毎日乗るJRの車内広告にこの番組のポスターが掲示されていたので、ネグレクトをテーマにしたドラマなのだろうということは推測していた。
で、その第1話がネットで配信されていたので観てみた。
まあ確かに上記引用した記事のような抗議の声は上がるのかもしれないという内容ではあるが、個人的には何かに抗議するという発想があまりない。
▲と、ここまでは先週に書いて放置しておいたものだ。
で、先日第2話を観た。
このドラマはちばてつやの漫画に似ているなと感じた。
例えば、『ハリスの旋風』だ。
まだ日本全体が貧しかった記憶が鮮明に残る昭和40年代の学園マンガだ。
札付きの乱暴者であるものの天真爛漫な石田国松少年が巻き起こす騒動の数々は当時の少年たちの心に焼き付いたことだろう。
で、『明日、ママがいない』のどこが『ハリスの旋風』と似ていると感じたのか。
つまり逆境である。
逆境とは、貧困であり差別であり偏見である。
両者はそうした逆境が描かれている。そしてその逆境を主人公がどう生きていくかということがテーマとなっている。
『ハリスの旋風』の石田国松の父親は屋台のラーメンを引っ張って生計を立てている。家族は丘の上の掘っ建て小屋に住んでいたと思う。もちろん貧乏生活だ。今ではおそらくほとんどあり得ないような設定である。
まあそれでも今のように抗議などなかったのは、まだ全体が貧しかったからだろう。
そして何より当時の日本は未熟ではあったが、「明日があるさ」というような希望があったのだろう。
希望があるところに抗議はあまり表出してこないのかもしれない。
一方、問題のドラマはその「明日」、ママがいないというのだ。
つまりこのドラマは明日つまり希望なき今の時代に生きるにはどうすればいいかというようなことが個人的にはテーマだと思う。
そして前述したのと反対に、希望がないところに抗議が生まれるのではないかという気がする。
そんなことはない!あまりにも酷いから抗議するのだ!昔と今と一緒にするな‼︎という声はもちろんあるだろう。
それについては触れるつもりはない。
では、何が言いたいのかと言うと、まだ2回しか観ていないが、この『明日、ママがいない』というドラマはネグレクトされた子供たちがいかにして否定された自己を獲得・回復していくか、あるいはいけるのかという問いかけでなないか、そうであればいいと思う。
もしそうだとすれば、このドラマに抗議するということは、自己の獲得・回復に抗議するということになりかねないような気がしている。
いずれにせよ、今の時代は石田国松少年を見守るまなざしが失われてしまったのかもしれない。