会で非活になり退会した人の中には、もう宗教はこりごりだと思う人もいれば別の宗教に行く人もいる。
どちらの気持ちも分かる気がするが、別の宗教はどうやって選ぶのだろうか。
星の数ほどもある宗教の全てを吟味することが出来ない中で、二度と同じ過ちを繰り返さないように選び出すのは時間もかかるしハードルが高い。
手近なところで評判の良さそうなものを選ぶのだろうか。
お金も時間も殆んどかからない「いい宗教」が何処にどれだけあるのか知らないが、恐らくレアな存在なのだろうし、レアならレアで広まっていない理由もあるはずだ。
日本人は特定の宗教を持たない人が多いが、不特定多数の信仰を緩く持つ人が多いことも事実で、これが日本人の強みになっていたりする。
ワタシも非活になってからはそうした考え方で、天や自然と会話しながら生きたいと思っている。
宗教が支えになることはあるが、頼るものとするのは少し違う気がする。
自身との向き合い方を示唆するものではないのかな。
ご本尊や神仏が何かをしてくれるのではなく、「自分には出来る」と決意する祈り、思いが、形はどうあれ大切だと思う。
自分が自分を信じなくてどうする。
会を辞めてもバリ活時代のクセで、自分の信じているものを他人に押し付ける傾向が抜けない人もいる。
考え方を聞かれて披露するまではいいが、それを基準にして相手の考え方を理解しようともせずに否定するのは、それこそ宗教の害毒だ。
選択肢の一つとして提示すれば役割は終わりだ。
話に乗る、乗らないも含めて、選ぶのはあくまでも相手。
今思うと「折伏」などという強引なやり方はとんでもない活動だ。
これは僧侶の仕事、やり方だ。
折伏する僧侶は世間からどう思われようと関係ないし、全ては自分の修行になる。
在家が無責任な「折伏」なんかしてどうする。
トラブルリスクが大きいのに誰も助けてくれないから、小さなコミュニティで慰め合うしかないぢゃないか。
会のバリ活は、主にそんな半出家みたいな社会的にハブられた人たちで構成されていたりする。
自分で考える人はドンドン抜けているから、受動的な人たちだけの抜け殻のような組織で歓喜などあろうはずもない。
一歩引いて見て、組織で人を使う人、使われる人の違いや、その目的に着目した方がいい。
また、人を使う人が、マネジメントだけではなく、その人自身が何をしたのかしなかったのか、仕事なのかボランティアなのか、失われた30年に責任は無いのか……
そのように評価した時、その人の真の指導性が見えてくる。
会社員が「この会社は・・・」と批判をした時、「この会社」とは主に直属の上司のことだったりする。
なので一流の会社では役職者になるにはそれなりの厳しい基準がある。
同様に、会がいくら崇高な理念を掲げても、末端の幹部指導が低次元のノルマ処理に直結しているだけだったりすると、看板と実態の乖離に失望する人が多く出てくる。
それを分かっていて放置するのだから、看板の裏面にはそれを認めることが書いてあるに違いない。
「それはおかしい」という意見には、ちゃんと「同志誹謗はいけない、信心の途上だから」という全国共通の言い訳まで用意されているw
なので会の理念の本質は、見えている酷い現実そのものと思った方がいい。
勝利、勝利と連呼するが、その結果は自分にとって具体的にどうだったのか、振り返ってみても罰は当たらない。
折伏や勧誘は、自分と向き合えた人にだけ許されるもの、と思っていた方が良さそうだ。
組織と向き合うのではない。
先ずは自分と向き合うことが、宗教に限らず、人生の基本だと思うこの頃。
話がとっ散らかってしまった。
しかも長いw
「お前がちゃんと自分と向き合えよ!」
は~いw