敬愛するアンチブロガーの方の最近のテーマで「功徳欲しさ」が採り上げられていた。
なるほどと、深く考えさせられた。
「功徳欲しさにそんな活動をしていたんだろう」という批判に対して、「功徳欲しさだけで、できるだろうか?」が対立軸になっている。
ワタシは上品な活動家wだったので、非活になってからは節操なく非常識、ガムシャラに活動する会員のことを「功徳ゾンビ」と揶揄したことがある。
なのでどちらの感情も理解出来る。
しかしこのズレは何なのだろうと考えた時、そもそも「功徳」の定義が広いことに気づいた。
大聖人は「功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」「功徳とは六根清浄の果報なり」と仰せとか。
現場では何か都合のいいことが起きると全て功徳になる。
前者は修行の結果であり、後者は「風が吹けば桶屋が儲かる」的な解釈によるところが多い。
つまり高尚なものからオカルト的なものまで、解釈の幅が広過ぎて焦点がボケている。
自分向きであれ他者向きであれ、広い意味で自分の欲求が満たされることを功徳と考えるのなら、両者に大きな違いはない。
何かメリットがあると考えるから信仰があるはずだから。
有名なマズローは、人間の欲求には最も低次元な「生理的欲求」から始まり、「安全欲求」「所属と愛/社会的欲求」「自尊心/承認欲求」「自己実現の欲求」という階層があり、低次元の基本的な欲求が満たされることで、次の欲求が行動を支配するという欲求5段階説を提唱した。
「功徳欲しさにそんな活動をしていたんだろう」というのは主に低次元を追い求める姿で、「功徳欲しさだけで、できるだろうか?」というのは高次元を追い求める姿と解釈すれば、お互いの言っていることは総論の中の各論違いで大きな矛盾はない。
しかし各論を無視して批判するのは穏やかでない。
欲求の向け先が自分なのか社会なのか、下品で利己的なのか上品で利他的なのか、或いは混在だってするだろう。
他者に迷惑をかけるのであれば「功徳欲しさにそんな活動をしていたんだろう」と言われても仕方がないし、自分と向き合うことや、世のため人のためで自分のことは後回しでいい、としているなら「功徳欲しさだけで、できるだろうか?」と言いたくなるのも分かる。
会で無理やりさせられる体験発表の内容が、これらをごちゃまぜで語られるから、功徳の捉え方も千差万別。
いずれにしても会の「活動」が理にかなっていないし、全ての会員が心から納得できていないからこんな話になる。
まさに自ら周囲との戦いを生じさせて煽る宗教もどき、と確信しますが皆さんいかがでしょうか~!w
ホント、言葉って難しい。
言葉と生きていく新聞を読んでいたはずなのに、我々は一体何を得たのだろうかw