道場には、
ふいに元気な顔を
みせに来てくれる仲間、
久しぶりに道衣を持ってきて
稽古に参加する仲間がいます。
先日も、
ある指導員が来訪してくれました。
そのような仲間のなかには、
長期の休みを申し訳なさそうにして
挨拶をする者、
ご無沙汰していたことを詫びつつ
苦笑いを浮かべる者、
最初の表情はいろいろと。
それぞれの気持ちは分かりますが、
私の中で湧き上がる感情は
いつも決まっています。
「よく来た!」
という気持ちのみ。
久しぶりの仲間を迎える際に、
長期にわたるご無沙汰への
恨み節や嫌味の気持ちなど、
一度も感じたことはありません。
道場に入るのを
遠慮がちにしている様子の仲間を、
久しぶりのその顔をみた瞬間、
とてもうれしいと感じる。
自分でも
不思議というほかはありませんが、
それ以外にないのです。
そして、
何かしらの思いを抱えながらも
時間をつくり
自ら道場に足を運んできたこと、
個々の事情で
苦しい時期でもあったであろう
この休みの期間を労うとともに、
この日の再会を
新たなスタートの機会、
よいきっかけとしてほしい、
心からそう願っています。
そして、
久しぶりに道場に来た仲間も
呼応するように
最初の緊張感はすぐに解け、
かつてのよい表情に戻っていきます。
ともに考え、汗を流した時間が
自然とそのようにしてくれるのでしょう。
もはや理屈ではありません。
いつも「ともに」という姿勢
(2008年6月 森、与那覇師範)
これまでも記しているとおり、
他者との比較ではない、
自分の時間軸での
着実な成長を続けていくことが、
己の確かな軸をつくります。
そして、前言を超える表現ですが、
その先には、相対的にもゆるがない
確かな自分というものを
かたちづくることができる、
その手応えを得ることができるのです。
久しぶりの仲間の表情や言葉から、
私たちの意義、本分が
自然と思い起こされます。
これからも道場をよい空気、
よい空間とするように
みなでつくり上げていきたいと
改めて思っています。
追記
道場内に迎え入れた
久しぶりの仲間には、
先輩風を吹かせてもいい、
と促してみなに紹介し、
挨拶の機会をつくることも多いなかで、
ときには、
「そのようなことを考えていたのか」
と、私もうなるような
稽古での学びや仲間への
自分のまっすぐな思いを
謙虚に、しっかりと
語ってくれることがあります。
人生という長距離走において、
取り組みには
そのときどきで波があるもの。
それでも切れないものとすることの
意味を感じます。
そして、
無駄なことは一つもない、
すべてを糧とし
成長していくことができるもの、
生きる力としていくことができるものだと
確信しています。
3つ、再掲します。
