最近も相変わらず出張が多く、ホテル暮らしとなることがほとんどです。自分の家に帰れば電子ピアノがあって、夜遅くでもピアノを弾くことができるのですが、出張が続くとそうはいかず、なかなかピアノを弾く時間が取れません。


たまにピアノを弾くと、音楽に触れることができるありがたみと喜びを、改めて感じることがあります。そういう時は、(電子ピアノなんですが)音が活き活きとしていて、弾きながら曲の世界に入り込むことができます。一方で、ただ単に「鍵盤を弾いているだけ」と感じる時もあります。自分と曲の世界との間に壁があって、そこに踏み入れない感じがするのです。


なぜそんなに違いが出るのだろうと考えてみると、曲と向き合うには次の2つのことが大事なのではないでしょうか。


一つ目は、どう弾きたいかという明確なイメージを持って弾ち、そして自分の演奏をしっかりと聞くということです。これはにわとりと卵の関係でどちらが先にあってもいいのですが、曲に対する明確なイメージをもつことで、自分の演奏がそのイメージどおりになっているか、ちゃんと聴こうとします。また、曲をちゃんと聴くことで曲のイメージがさらに広がっていきます。曲の世界に入り込んでいけるときは、このサイクルがグルグルと回っているのです。


そしてもう一つ重要なことは、「どう弾けば曲の良さを引き出せるか」を考えることです。曲の分析や解釈を行う(アナリーゼを行う)ときに、曲の魅力はどこにあるかを考えるのです。そして、それを一番伝えることができる弾き方を選択することが、「どう弾きたいか」というイメージにつながっていくのです。独善的な想いだけで弾いていては曲の魅力が半減してしまうのです。


さて、こうやって曲との向き合い方を考えたときに、これって人(特に異性)との向き合い方と似ているなあと思います。


人との向き合い方で一番重要なのは、相手の言うことを聞いて、相手を理解するということです。そして、何が相手の長所で、どのようにすればそれを最大限引き出せるのか考えることで、人間関係はうまく回るようになります。相手を理解しようとせずに、自分の想いだけをぶつけてみたところで、なかなか共感は生まれません。ただ、理屈ではわかってはいるんですが、なかなか気分が乗らないときがある・・・そんなところも似ています。


あと、余談ですが、私はある曲を練習していたとしても、弾きたいと思う曲があれば目移りして、いろいろな曲に手を出してしまうタイプです。これも、曲との向き合い方とと人(異性)の付き合い方が似ているなあと思ってしまう所以です・・・


★関連記事

ピアノに没頭

生活パターン



組織の上に立つ者のリーダーシップについては広く認知されており、リーダーシップ論を論じる書籍も星の数ほどあります。一方で、リーダーに仕える者の「フォロワーシップ」については、リーダーシップほどは広く認知されていません。


しかし、強い組織を作り上げるには、リーダーシップも必要ですが、そのリーダーを支えるフォロワーシップも非常に重要です。それは、リーダーがビジョンや方針を示すだけでは組織は動かず、それを受けたものがリーダーを支え、組織として確実にそれを実行することが重要であるからです。


そして、リーダーシップと同時にフォロワーシップが重要なもう一つの理由は、ピラミッド型の組織においては、同じ人が、リーダーであると同時にフォロワーになるからです。例えば会社においては、課長は課のリーダーですが、部長に対してはフォロワーになります。つまり、リーダーシップとフォロワーシップは表裏一体のものとして身につけていかねばならないものなのです。


ただし、フォロワーシップといっても、盲目的にリーダーに従うこととは異なります。リーダーにゴマをすり、神輿を担ぎ上げることはフォロワーシップではありません。


健全なフォロワーシップには3つの要素が必要であるといわれています。一つ目は正しいリーダーを見極める力、二つ目は上司の要求に応えていく(コミットする)力、三つ目はリーダーに対して批判的な提案をしていく力です。特に三つ目が大切で、そのためにはそのリーダー自身がフォロワーシップを理解し、自身を支えてくれる人(フォロワー)と健全な批判を言い合える関係を構築しておくことが必要なのです。


前回の記事で課長のネットワークのことを書きましたが、まさに課長層は会社のなかでリーダーシップとフォロワーシップの両方が求められる層です。課長層が動かなければ組織が動かないと書きましたが、それはまさしく、課長が部長や経営幹部のフォロワーとならなければならないということです。


ところで、話は少し政治のことに飛びますが、米国の大統領選においては、選挙期間中は共和党、民主党で国を二分した議論が戦わされるのですが、一旦リーダーが決まると、そのリーダーに対する国民のフォロワーシップが発揮され、国が一つにまとまっていきます。


一方で、日本においてはどうでしょうか?いまだ戦時体制に対する批判が残っているためか、一人のリーダーに対して国を挙げて支えていくということに対して、マスコミを含めて批判的な意見が多いように感じます。


もちろん、上記で書いたように盲目的なフォロワーシップは駄目ですし、批判的な意見を言えない体制というのは、独裁的な体制となります。しかし、日本の政治においては、自分たちが決めたリーダーを国民が責任を持って支えていく健全なフォロワーシップ(批判的なフォロワーシップ)がもっと必要ではないかと思います。


★関連記事
課長のネットワーク
予算とコミットメント

責任の取り方

政治に求める長期的視点




会社の中において、課長は「中間管理職」と呼ばれることがあります。部長からの指示に対応しなければいけない一方で、部下のマネジメントも行わなければならないということで、場合によっては上から下から挟まれてしまうこともあります。


しかし、会社組織の中で課長の働きというのは非常に重要です。中間管理職ではなく、「第一線の経営職」として捉えられるべきだと思っています。実務的に組織を取り仕切っているのは課長であり、何より、課長自身が経営的視点をもって実務的な課題に対して日々ジャッジをしなければ、組織は有機的に機能しません。


以前の記事で書きましたが、経営企画の仕事をしていると、基本は部長層に働きかけること が多くなります。それは部長が意志決定の権限を持っており、意思決定者に依頼しなければならない案件が多いからです。


しかしその一方で、部長にだけ話をしたとしても、機能しないこともあります。それは、こちらの意図通りに部長から課長に指示が下りていない場合があったり、最悪の場合は、部長から課長に何も指示がでないこともあるからです。


それゆえ、課長層のネットワークを持つことが非常に大事です。これは経営企画に限らず、どのような職種でもいえるのではないでしょうか?


課長層に直接経営陣の意図や背景を伝えることで、組織の動きはスムーズになります。また、課長層のネットワークでは、いろいろと本音ベースの話が聞けます。また、前回の記事で現場のコミットメント が大事であると書きましたが、課長層と話をすることで、現実にはどこまで対応可能で、どこからは困難なのかを知ることもできます。


もちろん、重要な意思決定を下すのは部長以上の経営幹部層であり、これらを無視した動きはできません(そんな動きには課長自身がリスクを感じて乗ってきません)。しかし、課長という実務者層をおさえることで、外堀から埋めていくように、意図する方向にじわじわと組織を動かすことはできるのです。


★関連記事
スタッフに求められること(3)
予算とコミットメント




2010年度も第一四半期が過ぎ、多くの企業で四半期決算発表にむけての準備が進められています。そこであわせて年度業績見通しの修正の有無などが検討されるわけですが、さすがに第一四半期の段階で、年間の業績見込みが修正されることは稀です。よほどの環境変化があれば別ですが、そうでなければ、なぜ予算(年度の事業計画)を立てたときに、そのくらいのことが読み込めなかったのかという目を向けられてしまいます。


企業が、年度初めに示す業績見通しというのは、その会社が社外のステークホルダーに対して示す約束(コミットメントです)。ですので、少々の環境変化があったとしても、年初の業績見通しを守ることが期待されていますし、また企業自身も、その達成にむけて、予算統制などの内部の管理を行います。


ただし、いくらコミットメントとはいえ、予算を策定するときにガチガチに固く読めばいいかというと、そういうわけではありません。まったくチャレンジをせず、現状の延長で将来の計画が成り立つのであればいいですが、多くの場合は何かしらのチャレンジを織り込んで予算としなければ、企業や事業の成長は達成できません。


ここでのポイントは、現状と目標値のギャップをいかに埋めて、実現可能にストレッチされた計画を作れるかです。「チャレンジ」と「無茶」は違います。いくら会社の成長(あるいは赤字事業なら黒字化)を達成したいという目標があったとしても、実現不可能な計画を立ててしまっては、結局結果がついてこず、業績の下方修正をする羽目になってしまいます。


最も重要なのは、何をすればその計画が達成できるのかという実行計画がちゃんとあり、それが現場レベルでコミット されていることです。そして、それを考えるときには、以前書いた「マネジメントリードタイム 」を考慮しなければなりません。例えば、手を打ってから効果が現れるのに1年以上かかる施策を実行計画に織り込んだとしても、それは今年度の成果につなげることはできませんので、有効な実行計画になりません。


予算を組む際に一番危険なのは「がんばります」という言葉です。全社的な計画改善を行うために、ある事業やある部門に、目標値の上乗せをお願いしなければならないことがあります。そのときに「がんばります」といってすぐに引き受けてくれるところは要注意なのです。そのような場合、目標値達成にむけた綿密な実行計画をもっていない場合がほとんどです。逆に、そういう計画がないから漠然と「がんばります」という言葉になるのです。


逆に目標値の上乗せをお願いした時に、「ここまでは引きうける。だけど、これ以上は無理」といってくれる場合は、その事業や部門は信用できます。何が自分たちの手のひらにのっていて、何が乗っていないかを理解しているからです。


全社的な計画をまとめる経営企画の立場としては、予算を策定するときに「がんばります」といって目標値の上乗せに同意してくれるところは大変ありがたいのですが、大体の場合は後で「やっぱりできませんでした」となります。逆に、なかなか「わかった」といってくれないところは最初は大変なのですが、一旦実行のフェーズに入れば、そこで大きく計画が狂うことはまれなのです。


★関連記事
・マネジメントのリードタイム
共感と納得

会社の数字と現場

前回の記事で、近所のスーパーで売られているビールの価格を見て、500ml缶が一番お徳である(単位量あたりの単価が安い)ということを書きました。(350ml缶が197円、500ml缶が268円、1L缶が559円でした)


このことに関して、なぜ500ml缶が一番安くなるのかは昨日の記事で書きましたが、もう一つ、素朴な疑問が湧いてきます。それは、なぜわざわざ割高になる1L缶を店で売っていて、かつそれを買う人がいるのか、ということです。


一つ推測できるのは、スケールメリットの考え方で、500ml缶を買うより1L缶のほうがきっと安いだろうという「思い込み」が働いているということです。実際、一般的には「多量に」「まとめ買い」したほうが安くはなります。「業務スーパー」などにおいて、業務用のサイズをまとめ買いしている人がいるのは、そういった理由です。


しかし、そういう思い込みがあったとしても、冷静に値札をみれば、どちらが徳かがわかるものだと思うのですが、価格設定の仕方によって、(意図的に)ある種の「価格の錯覚」を引き起こしていることも要因ではないかと思っています。


価格の錯覚とは、一般的には下一桁が8や9のものは割安感があり、1や2のものは割高感があるというものです。例えば、198円と201円の商品とではたった3円しか値段の差はないのですが、感覚的に「100円台」と「200円台」という捉え方をされて、実態以上の価格差があるように思ってしまう現象です。実際、上記のビール価格設定はすべてそのようになっています。


今回のケースでの「価格の錯覚」とは、1円単位の価格設定とし、しかも5~9など2倍や3倍したときに「繰り上がる」数字を多く使うことで、消費者がすぐに損得計算をできないようにしている点です。


単純な例で言えば、もし500ml缶が230円、1L缶が500円だとした場合、どちらが特になるか、比較的簡単に計算できるのではないでしょうか。500mlの2本分は、230×2=460円ですので、500円で1L缶を1つ買うより、500ml缶2つのほうが得だと気づくわけです。


ところが、500mlが268円、1Lが559円となると、その計算が瞬間にはできなくなります。よっぽど暗算が得意か、わざわざ電卓を計算しない限り、どちらが徳かはすぐには計算できません。


となると、上に書いたように「量が多いほうが安いはずた」という思い込みにしばられて、思わず1Lの缶を手にとってしまうのではないかと思っています。


★関連記事

・ビールは500ml缶がお徳?(1)