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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

私は日課として、朝、日本経済新聞を読んでいる。

 

世界や日本の、大まかな流れを掴んでおきたいということももちろんあるのだが、私自身は記事を読みながら自分をとりまく会社やコミュニティに置き換えて考えるようにしている。

 

先日の社説の見出しはこうだった。

『政権半年でも経済再生の道筋が見えない』

 

というものだった。

岸田政権は、新しい資本主義を掲げて政策を展開中だが、世間からは、その中身もシナリオもあまりよくわからないという評価となっている。

 

では、振り返って自分自身の会社や、コミュニティはどうなのか…。

 

社員からみて、うちの会社の経営の道筋はしっかりと見えるようにできているのだろうか?

地域の人は、所属するコミュニティーの未来をしっかりと見据えて行動ができているだろうか?

 

人のふり見て我がふり直せ

 

の言葉のように、政権批判に終始するのではなく、まずは自分の足元廻りから見るようにしたいと思う。

 

プーチンのように、独裁的にふるまえば、世界中から袋だたきにされ、信用を失うのも、地域におきかえてもよくあることだ。

政治や経済でおこること、外交でのやりとりなどなど…置き換えればすべて自分たちの生活の延長の先にある。

 

 

公共輸送手段をどう確保するかということは、過疎化が進む地方においては、いつも中心的議論になる話題だ。

昨日もメディアで、そのことが取り上げられていた。

 

 


私の地域では、バス利用者の減少により、バス路線が廃止となったりして、それを補うために、行政運営で乗り合いバスを運営している。
しかし、それとて、利用者が確保できる行政運営の課題になっている。

もう、これまでのスキームの延長で、とらえることは不可能…ということだ。

諸外国では、UBERやGRABといった新興のライドシェアサービスが活況だ。
日本では、法規制が変わらず、改革が果たせていない。

今こそ、規制を改革し、地方にいても、移動手段を確保できることを考える必要がある。

例えば、日々通勤で車を使う私たちの車の後部座席はたいがいがあいている。
そこをそういった方々への座席として提供することには、僕自身はなんら抵抗はない。

ただ、相手の事情にあわせて、迎えにいったりそこまでできない。
空いている後部座席を何かのアプリで感知し、利用したい人がそのタイミングがあえば乗れるようにできれば、少しぐらいは、この問題は解決できるようになるだろう。

もちろん、諸問題は山積みだ。
しかし、従来の枠組みの中で一生けん命その問題を解決することを考えるより、はるかに建設的で前向きだ。

今後、人口はもっと減る。
そういうことは織り込み済みのこととして次の一手を考える必要があるだろう。

インターネット社会になり、コミュニティーのありかたはかつてない変化をもたらした。

 

その最たるものが、自分の趣味趣向の会う人とすぐつながることができることだ。

 

そういう人たちと思いを共有できることはとても幸せなことなのだが、私自身はそれがもたらす弊害というものも同時にあると思う。

 

物理的につながっている『地域社会』、、ムラ社会がその典型なのだが、同じコミュニティの中にありながら、すべての人と価値観までを共有できているというわけではない。

 

近所付き合いの中で、さまざまな軋轢を生んだりすることはよくある話だ。

 

そんな中で生きていくためには、自分自身が譲歩したり、相手をいなしたりすることもまた日常茶飯事である。

ときに、怒りや悲しみなど、ネガティブな感情を生み出すこともある。

 

しかし、そんな中で、自らをうまくコントロールし、かつ、調和するように勤めてきたというのがムラ社会の実態だ。

 

ひるがえって、SNSを中心としたコミュニティにはそんな我慢は無用だ。

自分にあわない人とは、ブロックや削除をしたり、ネットサーフィンよろしく、次々に乗り換えていくこともありだ。

 

そういう生き方が中心になっていくと、自分にあわないものは徹底的に排除しようという空気が生まれるのではないか、それは結果として、リアルな社会の分断を生んでいくのではないだろうか。

 

ロシアのウクライナ侵攻は決して許されるものではないが、自分と考えがあわないことを受け入れることができない社会は、今後ますますさまざまな軋轢を生みだしていく…

 

そんな気がしてならない。

 

分をわきまえ、不平不満をも受入るという自らの耐性をつくっていくことが、これからの社会を生きていく一つの素養になるのではないだろうか…

 

 

 

 

ロシアがウクライナを侵攻しているニュースを見るにつけ、ふとこんなふうに思ってツイートした。

 誤字が痛恨のミスだけど(笑)

 

 

エネルギー資源が豊富なロシアは、それを輸入しているヨーロッパ諸国に圧力をかけ続けていて、それがゆえに起きた危機ともいえる。

 

日本も、多くの資源をロシアから輸入していて、経済制裁をすることで返り血を浴びるのではないかとおびえているところもある。

 

私たちの生活にとって、エネルギーを自給できることがいかに大事なのかということがよくわかる事例だ。

 

過去に、日本が太平洋戦争に突入していったのも、アメリカからの石油調達が滞ったからだと聞いているし、エネルギーというものがいかに国の安全に左右するのかを思うとき、ふと自分の身の廻りもエネルギーに他者から依存しているリスクをひしひしと思うようになってきた。

 

但馬の冬は寒い。

11月ぐらいから4月ぐらいは、暖房をつける生活だ。

今は、暖房の方法も多様化し、エアコンを筆頭に、石油、ガスなどのファンヒーターも多いが、いずれにしても他者からのエネルギー調達が主流である。


昨年、本格的な冬に突入した12月中旬、大規模な停電があり、しかも2~3日停電となり、一時かなりパニックになった。

電気が使えなければ、本当に何もできなかった。家では復旧するまでの間、ダウンジャケットを着こんで夜を開かした。


しかし、そんな中でも会社の薪ストーブはそんなことはまったくのお構いなしで、快適に過ごすことができて、エネルギーを自分達でコントロールすることができるのはなんと心強いのだろうと思った。


よくよく考えて見れば、昔はどの家も囲炉裏があり、釜戸があり、エネルギーはすべて自給していた。


だから、いくら人里から離れていても、集落として機能できたのだ。


但馬牛のルーツと呼ばれる熱田という集落は今は廃村になってしまったけど、一番最寄りの集落からも4キロ

離れている。


しかし、そこに人の営みがあったのは、鉢伏山の麓にあり、森林資源が回りにあり、自給自足が、成り立っていたからに他ならない。


今の時代はスイッチ一つで作動する世の中だから、その便利さは確かにない。


しかし、世界がどんな状況になろうとも自分たちでエネルギーを確保できるのというのは、実は最も安心を産むということなのだ。



 

 

数日前に、会社宛に沖永良部島から、じゃがいもが届いた。

 

送り先の住所を見て、すぐになぜ届いたのかピンときた。

 

2月のはじめに、兎和野高原の所長から雪の積込に協力してくれないかと連絡があったときのさらに元の依頼者が、沖永良部の人だったので、送り主がその方であることはすぐに分かった。

 

コロナ禍で子どもたちが遊ぶこともままならないので、元気づけようと、雪を輸送することになり、その積込を手伝ったからだった。

 

私は、そのときの発案者である新納運送店の竹島さんという鹿児島の方と名刺交換をしていたので、すぐにそちらにお礼の電話を入れた。

 

竹島さんは電話越しに、子どもたちがとても喜んでくれたので、そのお礼に地元でじゃがいもが収穫できたので、送りましたと本人もとてもうれしそうに電話をしてくれた。

 

 

『雪の積込の様子』
 
実は、雪の積込のころ、年度末の仕事を控えて社員はとても忙しく、また会社で請け負っている路線の除雪で連日、早朝から除雪に出るような状況なので、あまり気がすすまなかったのは事実だ。
 
私に直接依頼をしてきたのは、兎和野高原の所長さんだったのだが、実は、ちがう会社に最初依頼をしたが、断られたのだという。
兎和野の所長さんは、昔から知っている方だったので、どうにも断れなかった…というのが本音だ。
 
写真のように、たくさんのメディアが来てそのときの様子はテレビでも、新聞でも取り上げられたので、ひょっとしたら拝見した人もいたのではないかと思う。
 
しかし、もうおよそ1ヶ月前のことで、自分の記憶も薄らいでいたころに来たじゃがいもで、しかも電話越しに、とてもうれしそうに語る竹島さんの声を聞いて、島の子どもたちの喜びに貢献できたのだったらよかったなぁとしみじみ思った。
 
いただいたじゃがいもは、社員全員で分けた。みんなでわけたので、一人分はわずかで、私も数個だけ受け取った。
 
沖永良部島の竹島さんから送られたジャガイモをみて、経済っていうのは実はこのジャガイモに込められた気持ちと一緒なんだと改めて思った。
 
今は、貨幣経済が中心で、人のために役立てばその対価として金銭を受け取る。
 
しかし、受け取る側も渡す側も実は、そこにはさまざまな感情が載っかっている。
だけれど、残念ながら、お金というものはそういうものを見えにくくしてしまう性質がある。
 
でも本当はそうではない。
 
私が受け取ったじゃがいもは、お店で買えば数百円の品物だったかもしれないけど、そこに込められた気持ちはものすごく重いものだ。
 
単なるジャガイモではないんだ…社員の中にはそういういきさつをしらないものもいたので、そういうストーリーも添えて渡すようにした。
 
そうすれば、ジャガイモもとてもありがたいものになるはずだ。
 
考えてみれば、私たちの仕事はみんな尊いものだ。会社であれば、仕事をして、その感謝の気持ちとしてお金を受け取り、それを給与という形でみんなに分配する。
 
誰かのありがとうがあり、それを受け取り、そして会社はまたその気持ちを社員にありがとうという形で分配をする。
 
今日の晩御飯のジャガイモは心していただきたいと思う。