ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -17ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

昨今のトピックスは、チャットGPTの話題だろう。

 

AIが学習して、さまざまな回答を対話しているかのように、繰り出してくるのだという。

大学では、そういった技術を学生が悪用し、さも自分が調べてきたかのように論文を出したりするようになることを懸念し、規制する動きもあるのだとか。

 

あらゆるテクノロジーが高度化し、おせっかいぐらいに、世の中に浸透し、私たちの生活を豊かに便利にする一方で、さまざまな弊害をも生み出してくるようになってきている。

 

このながれをもう止めることは決してできない。

 

そんな中で私たち人間が、したたかに生きていくために何が必要なのだろうと考える日々だ。

 

私は大きく二つの側面があると思っている。

 

一つは創造するということだ。

私はヒトは偉大だと思う。さきのチャットGPTにしても、それは人が生み出したものだ。何年後かにシンギュラリティ―がおきると言われている。ある意味それはおこるかもしれないが、やはり人間の創造性に勝るものはないと思う。

 

コンピュータは、あらゆる事象をとらまえ、それをデータとして蓄積し、そこからはじき出される答えを無数に生み出してきた。

 

しかし、人間はあるものを見ても、それを別に解釈するという創造性もあわせもつ。

人が描き出す絵画を見ながら、ときどきそんなふうに思うことがある。ある事象を見たり、あるいは頭の中で空想して、筆を走らせて、何かを描きだす。そしてまた、意図してか、はたまた意図せずか、筆が走った軌跡がそこに描きだされ、一つのテーマとして目の前に現れる。

 

そしてまた、作品の思いとはまた裏腹に、それに対峙する人も、勝手に思いを巡らせ、自由に解釈し、自分の中にインプットしていく。さらには、そこから得たインスピレーションが役にたつか経たないかそれすらわからないけれど、その絵に対峙したという経験は、その人の中に取り込まれ、次の何かの礎になっていく。

 

そういったことが日々繰り返され、人間の社会の歴史がひとつずつ積みあがっていくのだ。人間が生き続ける限り、それはずっと続いていくことで、いくらコンピュータが優れていようともそのような人の営みを越えていくことなど不可能だ。

 

 

もう一つは、人は豊かな感情を持ち合わせる存在だというだ。

 

怪我をして痛い気持ちになる、人を喜ばせて、自分もうれしい。そういう人の内面から湧き上がる感情というものは、おそらくどんなにコンピューターが高度化しようとも、そういう得体のしれない感情を持ち合わせることは決してないということだ。

 

人が命あるものとして存在するが、そこには必ず終わりがある。命として誕生するとき、さらにその命が輝こうと懸命にもがく。ときにぶつかったり、へし折られたりするが、それでもなお、死ぬ一点が車で、その命が輝こうと懸命にもがく。そして、最後には命尽きる。そこにまた、さまざまな感情がうごめく。

 

おそらく、生きとし生けるもの、動物や植物、菌やウイルス、すべてがそういうものを持ち合わせているのだろうが、人間ほどの感情は持ち合わせていないはずだ。

 

そして、豊かであると同時に、人の感情は繊細だ。少しの変化をも感じ取る。

 

人が感情をもって生きていくこと。そして創造していくこと。結局のところ人が、これまでどおり人らしく生きていくことが、どんな時代にあっても大事だということ。

 

悩み苦しみながら生きていく。喜びや楽しみを享受しながら生きていく。何も恐れることはなく、ただただ人として、精いっぱい生きていくこと。

 

そこに尽きるのだ。

とある空き家物件の売買のお話があって今対応しているところなのだが、

 

そこの近所の人が

 

『どんな人が入ってくるのか、とても不安だ』

 

と、私のところに訪ねてきた。

 

一応、まだ、売主にもあっていないし、買いたいという人からは一応の連絡があって、近いうちにその物件を内覧していただく予定にはなっているのけれども、まだ買うかどうかというレベルには、至っていない。

 

ただ、やはりご近所さんとしては、得体が分からなければ、そういった不安が募るのはやむを得ないだろう。

 

この人口減少が著しい昨今、一人でも新たな住まい手が生まれることを願っているし、そのために当社としてもできる協力は惜しまないつもりだが、一方で、これまで地域コミュニティを築き上げてきた人がこれからも安心して、暮らせるようにしなくてはいけないと肝に銘じている。

 

私はハチ北に住んでいるのだが、一応の観光地であるがゆえに、他からの参入があるような話は常につきまとう。

だから、できるだけ地元でまとめられるものはそのようにするようにやってきた。

 

もちろん、新しい人が入ってくることで、地域が活性化することもあるから、いいとか悪いとかをそれだけで決めることは難しい。

 

大事なのは、入ってくる人には、

近所づきあいっていうものがとても大事なのだ…

そのために、みんなでつくりあげていくのだ…

 

ということを理解してもらうことだと思う。

 

まちづくり全般にいえることだが、一人の力などたかが知れている。

隣近所とも協力しながら、いかに多くのシナジーを生み出していくかが、成功するポイントの一つともいえる。

 

まだ見ぬ人への、ある意味の恐怖感は対話で解決していく他ない。

 

よそから入ってくる人だって、基本的に、地域と軋轢を起こしたいと思っている人などいないはずだ。

 

袖触れ合うも他生の縁。

そうやって触れていったものが、やがて大きな輪となるように…。

 

今日もがんばろう。

世の中には、すばらしい人はたくさんいるが、交番のフジワラさんは、本当に尊敬すべき人だった。

 

交番勤務のお廻りさんは、何年か一度に交代になり、新しい方が赴任される。

 

4年前に、地元の交番にやってきたのがフジワラさんご夫妻だ。

 

子ども達の通学には、必ず通学路にたって、子ども達の安全を見守ってくれた。

フジワラさんは非番の日も、立ってくれていたそうだ。

 

そして、地域の人の防犯意識を高めるために、自費で、ミニコミ誌をつくり、毎月地域の人に配っていた。

 

いつも優しく声をかけてくれて、本当に地域の安全を守ることに徹してくれていた。

 

フジワラさんは、志願して、交番勤務になったと聞いた。

あれだけ地域に寄り添ってくれた人を他に知らない。

 

残念ながら、この3月で、任期を満了し、他の場所に転勤となってしまった。

 

何年か前には、その活躍が認められ、日本で優秀な警察官として表彰も受けられたようだ。

そして、そんな活躍を上司もほってはおかず、晴れてと言っていいのかわからないけど、栄転されたと聞いた。

 

『プロフェッショナル』を語るとき、一般的には技術的に高いとか、サービス品質が優れているとかあるけれど、フジワラさんは地域の安心に徹する意味では真のプロフェッショナルだと思った。

 

警察官の宿命、何年かすると、転勤をせざるを得ない。

ついにこの3月その時がやってきてしまって、僕は本当にさびしく思った。

 

でも、きっとこんな警察官がいてくれれば、きっとかの地でも安心安全な社会を広げてくれるに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

先日、某銀行さんが主催するイベントに行ってみた。

 

それは決算発表会なるものだった。

飲食ができる…

 

という誘い文句にツイツイ乗せられてしまった。

 

場所は某老舗ホテル。

到着が早かったせいもあって、まだ参加者はほとんどいなかった。

 

会場に入ってすぐに後悔した。

飲食できるという誘い文句で来てはみたものの、ちょっと僕がいる場所ではないかも…と思って、もう最初は帰りたいモード全開になってしまった。

 

そのうちに一人二人と席に着く。

そのイベントは披露宴のような円卓に座り、7~8名が席を囲んでの食事付きのものだった。

 

知らない人ばかりで気遅れするばかりだったが、意を決して(というと大げさだが、実際マインドはそんな感じだった)隣の人に、お約束どおりの名刺交換をお願いし、なんとか、その場を取り繕おうといろいろと話しかけてなんとかその場をつくってみた。

 

イベントが開始され、某銀行の経営内容についてのプレゼンが続く。

 

ただ、そのプレゼンが思いのほか僕の胸に刺さった。

 

銀行って、お客様に資金を貸し出しその利ザヤで稼ぐ商売だ。

お金というもっとも個性や特徴のないものを貸す。

 

だから、利息が何%ということが、取引上の大きなウエイトを占める。

しかし、実際には、銀行も人が行うものだ。

 

コミュニケーションをし、借り手が何を考え、どのような行動をしているのか…そういったことを機敏に感じとり、さまざまな提案や、異なる人を結び付ける。

 

個性のないお金を取り扱っているからこそ、逆にそこで働く人の真価が問われる。

 

だから、銀行も、どういう社会をつくりあげていきたいのかというビジョンをもちあわせることが重要だ。

そういったプレゼンは大変熱いもので、いろいろと勉強になった。

 

宴席の食事以上に得るものが多かった。

 

 

我々は、普段さまざまなものを消費する。

そして、当たり前だが、そういう消費活動をしていれば、必ずゴミが出る。

 

以前、

 

 

でも語ったように、私は日課でゴミを片付けているが、それは燃やすゴミで、ほとんどプラゴミには手をつけていなかった。

 

あまりにパンパンに膨れあがったプラゴミのゴミ箱を片付けようとしたが、ゴミ箱につっかえて、なかなか出せなかった。

力任せに、ひっぱりあげると、なんとか袋を取り出すことができたのだが、ゴミがあちこちに散乱して片づけているときのツイートだ。

 

ふと思った。

今まで、誰かがやってくれることを期待し、ずっと放置し続けた結果だ。

 

たまたま自分が今日、やってはみたものの、この後始末を普段誰かがやってくれているのだ。

 

そして、このゴミは、ゴミを出す日に、誰かがもっていき、そして、名前も知らない町の職員さんたちが、集め、リサイクルの現場にもっていく…。

 

うちの町では、ゴミ袋は有料なので、普段はその袋を買うということで、そのサービスに対して対価を払ってはいるものの、その先の行く末などに思いを馳せるなんてことは皆無だ。

 

よく考えれば、そういった人たちがなければ、私の会社や家はゴミであふれかえっている。

そんなふうに考えてみると、僕らは本当に無責任に生きているな…

 

そう思った。

 

もちろん、これからも、香美町のゴミ収集のサービスにはお世話になるし、決して自分でゴミを始末できるようなものではない。

しかし、意識の中でもっと自分たちがやる行動に対して、最後まで責任をもつという気概は持たなくてはならない

 

気概をもつならば、少しでもゴミが出ないような買い物に心がけ、モノやサービスはそのベネフィットを享受できるならば、それを使い倒して、天寿を全うさせていきたい。

 

社会は自分たちの想像超える大きさになって、そんな責任を考えずに、やっていける時代になってしまった。

もっと小さな社会であれば、循環は目に見え、もっと責任を持ってやっていくだろう。

 

あまりに循環が大きくなりすぎ、自分たちは目の前のことしか見えなくなった。

 

想像力を働かせ、可能であれば、小さな循環にリメイクし、そうやって責任ある形で生きていけるようにしていきたいと思う…