ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -18ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

ジェンダーバランスと言われて久しい。

 

実のところ、私は、昔その言葉にはずっとひっかかるものを感じていた。

 

妻と結婚したのは、20年前。

 

彼女自身は、当時専業主婦になることを望んでおり、稼ぐのは私の仕事だと思ってやってきた。

朝早く、夜遅いのは当たり前だったし、それはほとんど苦にならなかった。

 

家に帰ったら、食事があり、洗濯、掃除も彼女の役割で、家のことはほとんどしてこなかった。子育ても正直ほとんどやっていない。

学校などの活動もほとんど任せきり。

 

しかし、母親が民宿を営んでいたため、同居家族である妻は、主婦をやりながら、民宿を手伝っていたので、厳密に言えば、専業主婦ではなかった。

 

10年ほど前からは、会社が経営する宿泊事業も手伝うようになり、それこそ、いっぱいいっぱいの状況だったと思うが、それでもなお、彼女は家事をこなし、私自身の生活パターンはまったく変わることがなかった。

 

何度か、彼女は爆発したこともあったけれど、それでも私自身の考えはほとんど変わらなかった。

 

コロナが世界を覆うようになった3年前、宿泊事業はまったく止まってしまった。

宿泊の仕事はまったく動かなくなってしまったが、従業員を雇っていたこともありどう働いてもらうかと考えていたところ、彼女がそれならばパンを焼いて販売しようと言い始めた。

 

彼女はもともとパン屋の娘で、パン製造の知識や技術をもちあわせていたので、彼女自身が主導してパン事業をてがけることになった。

 

本人も厨房に立ち、朝は5時、夜は23時を越えるようなときも出てきて、さすがに家のことまで手が回らなくなってしまった。

食事の準備、片付け、洗濯、掃除…少しずつだが、私も手伝うようなったというより、自分もそれに加わらなければ、食事が目の前に出てくることもないし、洗濯もできあがってくることもなかったので、半ばしかたなくやったというのが本音だ。

 

自分は家事はやらないと決めていたけれど、意外ややってみると、そんなに苦にもならなかった。

続けてみると、自分の心に変化が出てきた。

 

シンクに放置してある食器があれば、その状況はいやだなと自然と手が動いて皿を洗ってしまう自分がいたし、干してある洗濯物は取込たたまないと気がすまなくなった。

 

何より、変化したのは妻の方だ。

妻は主婦を望んでいたと最初に言ったが、もともとリーダーシップが旺盛なタイプで、パン事業を始めるや、どんどん次から次へとアイデアを出し、人を動かし、状況を変化させてきた。イベントを企画したり、出張販売に行ったりして旺盛にビジネスをするようになった。

 

事業を成長させたい、何より地域に雇用を創出していこうという地域のリーダーとしてバリバリと頭角を現すようになった。

 

私が外で働き、彼女が家にいるときの何倍も周囲にポジティブなインパクトを与えていることはあきらかだ。

 

私はこう思った。

男女の垣根を越えて、一人一人の持っている力を発揮することは、これまで以上に世の中をよりよくする力があるのだ…ということを。

 

自分の20年前の考えが誤っていたことは明らかだった。

 

私が主に活動をしている建設業界、特に土木の世界は、おそらく90%以上が男の世界だ。

もちろん力仕事が必要なところもあるので、その点では、女性は及ばないかもしれない。

 

しかし、冷静に見渡せば、IT化、機械化が進む今の土木の世界では、いわゆる力仕事を必要としなくてもできる仕事は山ほどある。

重機のオペレーターや、ダンプの操作も、大きな機械を操作するのに腕力が必要に思えそうだが、まったく力は必要としない。

むしろ繊細さ、丁寧さが求められる部分においては、男は女性にはとうに及ばない。

 

男女比率を五分五分などというのは、簡単にできることではないが、しかし、少なくとも、建設業界は男社会だと思うマインドは捨てねばならないと思うし、常にジェンダーのバランスを意識した経営や業界の変革は必要だ。

 

古い考えを捨て、新しい世界を築くことができなければ、この業界は崩壊の一途をたどるだろう。

金曜日から、兵庫県国体予選、兵庫県高校中学総体(スキー競技)の役員として、現場に張り付いていた。
 

私は現在、兵庫県スキー連盟の競技部長を拝命し、スキー競技全般の統括を担わせていただいている。

 

今年『も』と言ったほうがいいのかもしれない。ここ数年、予定されていた主催行事や関連行事が、中止、延期、会場変更されるのが普通の状況になってきて、今年も、降り続く雨によって、日々減っていく雪に翻弄されてきた。

 

 

 

しかし、ギリギリが続く中、多くの人の熱意、そして協力によって、この週の行事は、なんとか乗り切ることができた。

本当に感謝しかない。

 

 

 

そういった感謝の念を持ちつつ、一方で、私は、自分たちの生活は果たして『地球温暖化』の抑制について、本当にむきあっているのか…という自責の念を感じるようになってきた。

 

この地域では、スキーは産業であり、教育であり、喜び楽しみ…そして生活であった。

しかし、実のところは、今も進行形である。

 

ただ、私たちが幼少のころに比べると、雪が生活の一部だと思えない状況になりつつあり、もしかすると、それは過去のもになっていくのではないか…

 

たまたま今回の行事では、我が息子も、大会に出場させていただき、親として、まさに当事者なのだが、雪不足に翻弄され、子ども達にきちんとした形で雪のある生活を届けられていない…ことには本当に申し訳なくさえ思えてくる。

 

私は、建設業を生業とし、地域のインフラ整備を進める一端を担っていて、それなりに地域にも貢献してきたと自負している。

しかし、一方で、多くのCO2を排出していることもまた事実だ。

 

インフラ整備は、我々の生活のためであることは間違いがないのだが、それは、私たちの将来世代のためでもあり、それが企業が事業を行っている目的である。

 

と考えるならば、全方位的に未来世代につながる行動をおこしていかねばならない。

 

だから、少しでもCO2 を削減し、なんなら世間でいうところのカーボンニュートラル、あるいはカーボンポジティブに舵を切る必要がある。

 

兵庫県北部(但馬)は、農業、観光は大きな産業であり、それと自然環境は不可分である。

その恵みの中で生きている私たちには、責任を果たす必要がある。

 

よく、日本人は諸外国の人に比べ、なんでもかんでも謝るという批判がある。

 

また、自分の非を認めれば、交渉事においては不利となるとも言われる。

 

どのように話をするかという方法論の問題なのかもしれないけど、私は、相手に対しては、自分は至らない人間なのだ…と常に控えめにしておくことはとても大事だと思う。

 

京セラの稲盛さんは、この世を去ってしまったけれど、稲盛さんの著書は私にとってはバイブルみたいなもので、何かがあると、本を引っ張りだしてきては、そこから人生のヒントを得てきた。

 

あの人の書物を通して感じることは、経営者の中の経営者でありながら、傲慢さがみじんも感じられないことだ。

 

常に自分を律し、自分は、まだまだなのだ…そういう気持ちが書籍の様々なところで垣間見られる。

 

もちろん、相手と対峙するときに、ときに厳しくあたることもあるのだろうが、基本的には、おごらず謙虚なのだ。

 

日本人はやはり控えめぐらいがちょうどいい。

 

冬季に入り、暖房を入れる季節に入ってきた。
うちの会社では、薪ストーブを主たる暖房器具として使って、燃料は、現場から出る廃材だ。

焚き付けには、これまた会社から出るコピーの裏紙などを本来はゴミになっていくであろうものを使っている。

薪を燃やしたことのある人は良くご存じだろうが、太い薪に直接火をつけても、燃え上がることはない。

小さな火種を少しずつ大きくしていかなければならない。

なので、ああいう紙類も薪ストーブには大事な燃料なのだ。

また、週に何度か、管理している施設のゴミの搬出も私の日課としていて、ときに中を開けたり、中を取り出してして、分別し、またまとめる…と言った作業もやる。

ほぼ毎日ぐらいゴミにまみれる時間があると言っていいだろう。

うちのまちでは、ゴミを何種類かに分別しなくてはならない。
空き缶、空き瓶、ペットボトル、リサイクル可能なプラスチック系ゴミ、雑ゴミ、段ボールなどなど…(かなり細かいが全部は忘れてしまった)そして燃やすゴミだ。

分別する品目によって、回収日が決まっている。

そういったものに相対すると、その人の生活ぶりがよく伺えてくるから不思議だ。

分別を行ったり、カサを減らそうとする人。それとは対照的に、まったくそんなものなど気にせず、燃やすゴミにやってしまう人。

昨今、環境問題について話題にならない日はない。
そんな中にあって、それとは無縁の行動をとる人たちというのはいる。

その人たちの言い分もある。
自分ひとりが、どんなにがんばってみたところで、環境というグローバルな問題にあっては屁のツッパリにもならない

そういうこと言い分だ。
どんなモノをもち、どんなサービスを得ているのか…
そうやって見えてくる人柄。

一方で、何を、どのように捨てるのかという人柄。

実は、排出する中から見えてくる人柄が奥深い。
 

レースを終え、しばらくゴール付近での余韻を楽しんだあと、ホテルに戻った。
疲れをいやす間もなく、帰り支度を整え、ジュネーブへのバスに乗り込んだ。
 
本当はもう少し長くいたいと思っていたかったが、すでにバスは予約し、ジュネーブでのホテルも予約していたので、そそくさとシャモニーをあとにする。
 
今回、レースに出ることは決めていたが、それにプラスして、さらに数日の休みをとるという気持ちの余裕はなかった。
 
そうは言っても、一週間会社を開けることになった。ヨーロッパに来るのは初めてではなかったが、初めて訪れる場所ということを考え、トランジット間の行程は少し幅を持たせていたので、その中でできる観光も楽しめたと思う。
 
レースでは、自分の持てる力は出し切ったのだろうと思う。
ただ、7月のコロナによる一時的なロックダウンからの回復は、思うようにできなかった感もあるし、今回の旅程についても、もう少し余裕をもっていたら、結果ももう少し違ったのかもしれないが、それはやはりタラレバの話だ。
 
レース終了の夕方にはすでに、ジュネーブのホテルにいた。
ジュネーブのナイトライフを少しぐらいは堪能できるかと最初は思っていたが、レース後の疲れで、結局夜通し寝ていた。
 
そのまま次の朝を迎えた。
 
8月28日7時30分
 
チェックアウトして、ジュネーブ駅から電車に乗り込み空港へ向かう。
行きとは異なり、少しだけ地理も頭に叩き込めたので、迷うことなく空港へ直行する。
 
 
 

 

 
 
駅のプラットホーム、
自転車の乗る人が目の前を通り過ぎていった(笑)
 
8時30分、ジュネーブ空港着。
あとは普段通り、チェックインを済ませ、飛行機に乗り込んで帰路についた。
 
ジュネーブ→アブダビ→成田
 
と乗り継ぐ。
 
8月29日13時00分 成田着
そして18時過ぎには関空
家に到着したのは、21時過ぎだったと思う。
 
これが今回のCCCのすべてだ。
 
レースリポートというより、単なる旅行記になってしまった。
今回、UTMBの出場は果たせなかったが、CCCに出れたことで、UTMBの雰囲気は十二分に味わうことができた。
 
これまで100キロレースには何度か出場してきたが、今回ほど、過酷な100キロはなかったように思う。
 
さすが、UTMBシリーズ…そう思った。
 
そして、次なる目標はすでに定まった。
UTMB本選への出場である。
 
『その1』でも述べたが、来年からレースの出場方法が変更になる。
これまでは、国内のレースで完走し、ポイント稼げばUTMBに出ることは可能だった。
 
しかし、新ルールでは、UTMBが定めるUTMBワールドシリーズと呼ばれる予選レースに出場し、完走することが最低条件になる。残念ながら、日本ではそのシリーズ戦はなく、必ずどこかの国のレースに出なければならない。
 
よわい49歳
トレイルランニングの世界では、50代の現役も相当多く出場しているので、まだまだ先はあるのかも…という期待もある。
 
しかし、やはり年齢を重ねるのに、これまで以上に体力が向上していくということはあまり考えられない。
 
1年1年が残り少ない現役生活の勝負年なのだ。
 
次の出場は順調に行っても、2024年になるだろう。
そのときまでに、体力が落ちないように努め、そしてワールドシリーズを経て、またあの大舞台シャモニーの地に戻れるようひたすら精進していきたい。