昨今、生産性向上という文字がメディアなどに登場しない日はないように思う。
しかし、私はどうもこの『生産性』の向上という言葉を定義づけてしまったところに、一つの過ちがあるのではないかと考えている。
よく、高級ブランドのバックや装飾品に代表されるモノの原価はそれほど高くはないと言われている。
(材料の調達や、加工の方法などが他と違えば、そもそも比較することすらできないはずではあるが…)
しかし、それをよしとして買い求める人は、いまだあとをたたないし、自分たちもそれにあこがれていたりもする。
高級バックの原価が仮にその販売価格の1割であったとしても、それに文句を言う人はいない。
買うひとは、そのモノに付随する様々な価値を感じ取っているからだ。
『生産性』という言葉を語るとき、100円にモノを90円でつくる、あるいは、5日かかってつくってきたものを、4日でつくるといった、いわゆる工場のラインでのことを考えがちだ。
だけれど、大事なのは、モノやサービスの価値を高め、社会的に意義あるものにしていく…
そういうことだ。
組織で人が働いていれば、そこにいる人たちが笑顔であいさつができていれば、少なくともそこで作られるモノもきっと良いものであろうと理解するだろうし、そういう活動全体の価値をあげてよりよい社会に近づけていくことが、大事なことなんだと思う。
安さやスピードは、あまたある価値の中で構成する一部分でしかない。
価値を高める仕事とは何なのか…生産性という言葉の呪縛から放たれて、そこの部分を一生懸命考えるようにしたい。