先日、地元の大先輩から、呼び出しを受け、みっちり3時間ほどありがたいお説教をいただいていました。
ある総会へ出席したおりに、私の態度がかなり横柄だったということで、それを切り口に、もう全人格否定されるぐらいビシビシに叱られました。
確か、ここのところ、ずっとさまざまな総会が続いていて、総会資料をひたすら朗読することが絶えれなく、ちょっとグロッキーだったのは確かだったので、そういう姿を大先輩に見透かされてしまったのは事実で、そこに関しては私の非礼をお詫びをしました。
大先輩であるがゆえにへたなことを言えるはずもなく、ひたすら先輩の声に耳を傾けてじっと耐えておりました。
一通り、先輩はしゃべったあと、かなり長い沈黙があって私は最終的にどうこの場を終息させたらいいのかよくわからなかったのですが、反省の弁を述べるだけで終わるのではなく、未来への希望を共有することにしました。
最後には、大先輩は、
『こうやって君を叱るのは、私自身も非礼だったかもしれないけど、君が地域のリーダーとしてしっかりとやってほしいからなのだ』
締めくくっていただいたときには、もう先輩に対する感謝の思いしかありませんでした。
私は、大先輩が激高されたのは、私の非礼があったことは間違いないのですが、御年も相当重ねておられ、実際のところ余命がそんなにないことに対する先輩なりの危機感なのだと深く受け止めました。
大先輩にも、この地域をより素晴らしいものにしていきたいという夢があります。
しかし、体が無理をきかないこと、どんなに冷静に見積もっても余命がそう多くはないこと…。
自分がまだ生きている間に、この地域がさらに発展する姿をこの目でしっかりと焼き付けたいのだ…
おそらくそんな気持ちなのだろうと思います。だから、若造が一瞬でもそういう隙をみせていることに耐えられないのだろうと思うのです。
確かに、地域の疲弊は日に日に深刻化しているさまを私自身も感じていて、極端な言い方かもしれないけれど、いつ崩壊するんだろうぐらいな印象があります。
だからこれまで一時代を築いてきた大先輩からすると心配で心配でならないのですね。
年寄のたわごとだと片付ければそれまでです。
ですが、若造たる私たちは、先輩たちの声にも真摯に耳を傾け、未来を創造していく責任があるのです。
失礼な言い方だけれど、大先輩も死んでも死にきれないはずです。
若い人だけでなく、ここに生を受けているすべての人が、希望を持てるような社会にする責任を私たちはもっと真剣に受け止めて行動しなくてはならないのではないか…そんなふうに思います。