昨日一昨日にかけて、和牛のふるさとが熱田であったことをお話しさせていただきました。
ネットで検索してみると、香美町森林研究基盤のHPから昔の地図をアーカイブしている資料をみつけることができました。
※香美町森林研究基盤→スタンフォード大学資料より
この資料は、明治に測量し、一部を昭和7年に修正して作成されているようですので、当時の人の往来を想像することができます。
赤枠は私があとで囲ったところですが、鉢伏山を中心に、東側に私が住んでいる大笹、そして西側に熱田、ちょっと上の方で文字が切れてしまっていますが、北側に秋岡が確認できます。
熱田と秋岡の位置関係がわかりますか?
熱田と秋岡は隣どおしの地区なのに、延々と距離があります。
そして、画面下方に、『大久』の文字が見えますが、熱田から養父市大久保にかけて道が続いていることがわかります。
先日小代越から熱田を目指したのですが、当時も現在の養父市のほうに行くための道として存在していたわけですね。
『奇跡の4頭』という表現を用いたように、世界的にも注目を集めるようになった『和牛』の歴史は、偶発的だったといえばそうかもしれないのですが、私個人はこれは必然だと思っています。
そして、この和牛の歴史は、私たちが今後、生きていくうえで多くの示唆を与えてくれているような気がしています。
江戸末期、黒船の襲来によって開国した日本。
そして文明開化によって、あらゆるものを欧米から学ぼうと多くのものを導入しました。
その結果、日本はアジア諸国の中でも先進的な発展を遂げて、今、先進国の一つとして、世界をリードする存在になっています。
しかし、和牛の歴史においては、外国からの交配を免れた熱田の牛のおかげで、和牛の反逆がはじまり、今や世界でも注目を集める存在です。
グローバルな社会の中で、すべてがコモディティ化していく社会の中にあって、ダイバーシティという言葉が聞かれるようになったように、多様性があることが、持続可能な社会の形成をしていくといわれています。
『経済』というものに照らし合わせると、グローバルな枠組みの中にあることによって、私たちは便利さも享受できるようになりました。
しかし、この但馬の山奥に住む私たちは、一方で自分たちがこれまで生活を続けてきた固有の文化や生活を衛ことで、社会全体としての多様性が保たれ、やがて大きな危機が訪れたときに、逆に大きな力を発揮することができるのではないか…混迷を極めた時代を生き抜くための知恵が熱田の歴史からひもとけると私は信じています。
このままでいくと、いずれ熱田分校は、雪などに押しつぶされてなくなっていくかもしれません。
もしそれがなくなったとして、私たちの生活に直接的な影響がおきるなんて考えも及びませんが、但馬牛の危機などのように、未来のことなどまったく想像もできないわけですから、熱田があることによって回避できる未来への危機というものがあるのではないかと思います。
ですので、そこにあることの意味というものをもう一度考えて、いきたいものだと思います。