昨日の続きになります。
小代区の熱田には、国土地理院の地図を片手に、入り込みました。
国土地理院の地図には『熱田』と明記してあるものの、現地は人影もなく、看板すらなく、この場所が熱田であったことを認識する唯一ランドマークがこの『熱田分校』でした。
私が熱田に来たと実感したのは、まさにこの分校を前に立った時でした。
私には小代に住む従姉がいたのですが、以前小代観光協会に勤務していて、但馬牛を世に広めることに並々ならぬ情熱を燃やしていました。
そんな彼女は当然熱田のことを知っていて、幾度となく熱田を訪れているのですが、そのときの様子が新聞に掲載されているのが下記になります。
廃校跡で昭和30年代の学習雑誌など大量に発見:朝日新聞 http://t.co/XCxbLjI0 40年以上前に廃校になった兵庫県・旧美方町立小南小学校熱田分校の校舎跡から、昭和30年代の学習雑誌や絵本などが大量に見つかった。出版社にも残された当時の雑誌資料の数は多くないという。
— 日刊旧建築 (@alterbau) 2012年10月14日
看板もないところでしかも険しい山道をあがったところにある場所ですから、この熱田分校をみつけたときに、まるで宝物でもみつけたような気持になってしまいました。
そして、但馬牛の聖地に到着したという思いの他に、さまざまな感情が沸いてきました。
昨日も述べた通り、熱田は、その手前にある秋岡地区からさらに5㎞ぐらい行ったところにあります。
いまでこそ、国道482号線となり、舗装もされた道ですが、この先にまさか集落があるとはだれも思わないような場所です。
しかし、そんなところにも子供たちの学び舎があったということに驚きを隠せませんでした。
昔と今を比較することは単純にできませんが、当時はどんなに山奥であろうとも、子供たちがいるところに学校をつくるということだったのでしょう。
日本という国は、子どもたち一人ひとりを大切にしていたのだなあと私は理解しました。
今、少子化を理由に学校はどんどんと統廃合されています。それはもちろん財政的な面が一番大きいわけですが、あまりに『合理的に』すすめることばかりに目をむけてはいないだろうかと考えてしまうのです。
1969年に廃校になったということですが、それからもなお風雪に耐え忍んでたたずんでいる姿は、今の社会に対するアンチテーゼのような気がしてならないのでした。