和牛の歴史はここから始まった | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

 

 
 
 
 
かねてから、行ってみたい場所があって昨日ようやく実現しました。
 

 

それは、小代の熱田に行くこと。

 
日本の和牛と言えば、神戸牛を想像されるかたは多いですが、その牛が但馬牛であるということが世間にもようやく認知されてきました。
 
そして、神戸牛のみならず、松坂、米沢、宮崎、鹿児島などなど日本の名だたる黒毛和牛は、ある一頭の牛のDNAがもとになっています。
 
『田尻号』という但馬牛がそれです。
99.9%の和牛がこの田尻号のDNAを受け継いでいるそうです。
 
但馬牛は、他の和牛に比べると小さかったため、明治時代に外国産の牛を導入し、大きくしようとしたものの、気性が荒かったり、たいした働きをしないなど、まったくうまくいかなくなってしまい、但馬牛消滅の危機を迎えることとなります。
 
しかし、小代の一番奥の地区である熱田にいた4頭の牛だけが、その危機から免れ、そこからのちにスーパー種牛『田尻号』が誕生したというわけです。
 
ですから、熱田の奇跡の4頭がいなければ、いまの日本の和牛が誕生していなかったといっても過言ではありません。
 
ただ、そうはいっても実は熱田は過疎化の波を受けてしまい、今は廃村となってしまいました。
 
そのような場所なので、いまのうちにみておこう!
とようやく実現できたわけです。
 
熱田は、私が愛すべき鉢伏山の西に位置するところにある場所です。
 
私はトレイルランニングを兼ねてそこをおとずれてみることにしました。
 
1221m、鉢伏山から高丸山方面に向かいます。

昨日は偶然にも、ちょうど『山焼き』をしているところでした。
ハチ高原にしろ、ハチ北にしろ、兵庫のスキー場はもともと牛の牧場だったところにリフトをかけて誕生したところばかりです。
 
兵庫の山で一番高原らしいところがハチ高原なわけですが、こうやって山焼きをすることで草原環境が保たれているわけですね。
 
ここはいわゆる小代と鉢伏の峠にあたるところです。
 
今は、ひとの移動は車が主流ですが、昔は徒歩による移動しかありませんでした。
 
山の人たちはわざわざ山陰道のような道を行くことなく、こうやって山を越えて、町までの行き来をしていました。
 
 
熱田にいた牛や人もこの峠を越えて、町のほうにでていったに違いありません。
 
私が、今回トレイルランでの熱田行きを考えたのは、むかしの人がたどった道を自分の中で再現してみたかったからでもあります。
 

 


そして熱田に到着、

校舎の『熱田分校』という文字がここがそうである唯一の証拠です。

 

その後、山を下り、隣の地区である秋岡まで出てきましたが、そこまでいくのに5㎞はありました。

 

半端なく山奥にある村、それが熱田だったのですね。

実際に走ってみて、その距離に絶句してしまいましたが、この距離が他の牛との交配を免れ、それが和牛の奇跡につながったわけです。

 

私がこれまで見聞きした但馬牛の物語を体で、理解することができました。

 

熱田は日本の和牛の聖地です。そんな場所に訪れることができ、本当に幸せな一日でした。