ふと、妻が言っていたことを思い出しました。
妻が、最近までスマホに替えることを拒み続けたのは、普段のコミュニケーションがおそろかになるからだ…と。
今日の日経新聞に、スマートハウスのことが出ていました。
住宅のあらゆるところにセンサーが埋め込まれ、朝起きるときには、明るすぎない程度に、徐々にカーテンが開き、うざくならない程度に、BGMが流れる…、階段をおりようとすると、警告音を発して…、家を出るまには、消し忘れなどがないよう、アナウンスをする…。
そんな実験住宅がすでに存在し、どの程度なら人の生活にうざくないなのかを検証するようなことを検証する施設なのだそうです。
車の世界ではすでにそんなことが進行していて、ライトやシートベルトの消し忘れはないようになっているし、夜になれば自動でライトが点灯し、道をはみだしそうになったり、ぶつかりそうになると、自動的に修正する。
知らず知らずのうちに、便利な生活を手に入れて、それに浸っていますが、それは目的ではなくて手段なのだということ。
余分なことから解放されてきていることは確かにありがたいです。
しかし、便利さの追求の結果が、幸せに近づいているのかということはしっかりと考えなくてはいけません。
以前、私の母が、介護が必要なになった父の傍らで
『今まではお父さんは仕事一筋で、一緒にいる時間が少なかった。今こうして介護が必要になり、私がいなければ生活できなくなったけれど、いっしょにすごす時間が増えたことはありがたいと感じる』
て話していたことを思い出しました。
便利さと幸せは共存しないのだということ。
便利さを手に入れることによって、なにをもたらすのか…そのことをしっかりと認識する必要があると思います。