ここ数日の日経新聞で、人生の最後をどうするのかといったテーマの特集記事が掲載されています。
ちょうど、お盆休み明けということもあり、また、たて続けに、近所で葬儀があったこともあり、いろいろと考えさせられています。
私の地域では、葬儀は区の行事です。
もちろん、葬儀屋さんが、祭壇などの準備をしたり、またお寺さんをお願いするのは家族であったりするのですが、司会や葬儀の進行は区の役員さんがやりますし、また隣保の方は、お茶や食事などの手伝いをします。
うちの村では弔辞を区長が読み上げることになっています。
おそらく、会社トップの葬儀や、政治家などの葬儀でもない限り弔辞を読み上げることなど普通はないと思いますが、うちの村ではずっとそうやってやってきました。
つまりは、最後の送り出しは、区の皆さまがしていただくことになります。
日経の記事では、自分の葬儀を事前に葬儀会社さんと契約をしたりするようなことが載ってました。『他の人には迷惑をかけたくない』というのが、その理由みたいです。
確かに、だれにも迷惑をかけたくない…という気持ちは理解できます。
しかし、人は必ず誰かのお世話になって生きているもの。
それが迷惑かどうかは、自分の心持ちしだいなのだと思います。
区で行う葬儀も、それはある日突然やってきます。
仕事の段取りがあるのに休まざるを得ないということもあり、それはある意味迷惑なのかもしれません。
しかし、自分のところも相手のところもいつかは同じようにそれがやってくるので、『お互いさま』という気持ちもあります。
自分もいつかは迷惑をかけるから、だから自分が役にたてるときは協力しようという気持ちがあります。
また、先日のキクちゃんの葬儀もそうだったですが、幼少のころから、本当にいろいろなことを教えていただいたり、声をかけてくださったりそうやってかかわっていただいた恩義があるので、むしろ何かをさせていただくことが自分にとってはせめてもの報いと思うところもあるわけです。
だから、それは迷惑でもなんでもなくて、そうやって関わっていかされていることがありがたいと思うのです。
いま都会を中心にそういう新しい終末の在り方が、社会の姿として本当にいいのかなぁと思わざるを得ません。
私たちのところもしかしずいぶんと変わってきました。
そして、この先もどのように変わっていくのかもわかりません。
しかし、私は地域のみなさんみんなで送りだされる社会のほうがいいなぁと思います。
そんな今の姿が今後も続けられるような村であり続けられるように、日々努力していかなくてはいけませんね。