
という表現がよく使われます。
家族が犠牲になって、こどもが学校に行かせてもらえているとか…
社員が犠牲になって、会社がなりたっているとか…
発展途上国が犠牲になって、先進国の繁栄があるとか…
そういう実態が実際にあるのかもしれないけど、その表現はあまり好きではありません。
まして、自分や、自分たちを卑下して、そういうふうに、世の中を語らないほうがいい。
田舎が都市の犠牲の上になりたっているのなら、その田舎から出ればいい。
自分が会社の犠牲になっているのなら、その会社をやめればいい。
日本の中にあっては、多くのことで、選択の自由が与えられています。
だから、自分が犠牲にならないところに、変わればいいだけのことです。
自分たちがもっているものを与え、自分たちが足りないものを他から得ているという対等な立場であります。
『犠牲』というのは、一方的に何かを奪われている状況のことをいうのだろうと思います。
奪われているという考えを脱却し、自分は与えているんだ!と主体的にものごとがみれるようになれば、自分の行動も自ずと変わってくるというもの。
与える人になりたいものです。