JCをやっていたころに、中学生こども県議会という事業がありました。
兵庫県にある各地の青年会議所のメンバーが、地域の中学生を兵庫県の議場に集め、知事をはじめ幹部職員に、中学生の目線で、兵庫県へ提案するという事業です。
中学生が、地元の『売り』を一生懸命説明をして、アイデアを知事にぶつけていきます。
その時のフレーズでよく出てきたのが、『私の町は自然が豊かで…』というフレーズ。
香美町はそれこそ、県内でも最も過疎化のすすんだ町なので、我が町こそが『自然が豊かな』地域だと自負しているのですが、確か神戸以外の中学生はみんな異口同音に、自分の町の自然が素晴らしいということをアピールしているのを聞いて、不思議に思ったものです。
『自然』の定義は、実は一様ではありません。田んぼがある風景もある人からみれば『自然』、国立公園の特別地域などのように、人の制限を規制しているような地域も『自然』
つまるところ、人工物以外のものは、すべて『自然』の要素をなしているんですよね。
また、田んぼのように人が作り上げたものであっても、そこに人が介在できない何かがあれば、それは『自然』なのでしょう。
そう考えると、『自然豊かな』というフレーズをいくら強調しても、それだけでは、売りにはならないということではないかと思います。
となれば、あとはその自然に対して、どのような形で人が介在するのかというところに、実は大きなウエイトがあるのでないかと思います。
例えば、間伐などのように、山を人が手入れをするからそこに、価値が生まれるわけですし、そういう山は美しい、また人が入れることができない山であっても、単に入ることが禁止されるだけでは、そもそもそこに魅力があるかどうかもわからない。
それぞれが考える価値ある『自然』に対して、どう向き合っているかということを認識して発信するところに、『価値』が生まれるのではないかと思います。
兵庫県の山は、1000mを超える山とはいっても、全国に数ある山々からすると、高さ的には突出しているわけではありません。
だから、単にあるというだけでは、それが魅力的であるということにはなりません。それが私たちの暮らしにどうかかわってきたのかという根本をみつめて、発信していくことではじめて価値がでてくるのではないかと思います。
答えが簡単にみつかるようなものではありませんが、しっかりと深堀をしてみることが大事なのではと、つらつらと考えています。