コミュニティーには、2種類あると思います。
ひとつは、地域などに代表されるように、物理的な関係でつくり挙げられたコミュニティー、
そしてもう一つは、趣味や目的などを一にするコミュニティー。
都会も一つのコミュニティーではあるけれども、隣の人は誰?というぐらいに、希薄な地域もあったりする代わりに、母数が多いので、カルチャースクールのように、自分のしたいもの、したいこと自分に会う中間をみつけやすいような気がします。
田舎のコミュニティーはいわゆる村を中心としたコミュニティーが否が応にもあります。これは、やはりその『場所』を基本としているので、目的が共有化できるかというと難しい面もあります。
この2者の一番の違いは、私が思うに逃げ道があるかどうかだと思います。
後者のコミュニティーは、自分中心にものごとをすすめることが可能です。趣味や考えがあわなければそのコミュニティーを抜ければよく、また自分の理想と思うものを探せばいい。
しかし、前者のコミュニティーは、一度そこに属してしまうと、よほどのことがない限り、抜けることは難しく、居心地が悪くなろうとも、そこから抜け出すことは至難の業です。(地域コミュニティーの場合、住所を転居すればいいので可能といえば可能ですけどね…)
ただ、最近の傾向としては、後者のコミュニティーのほうばかりに目を向き、そればかりが強調されているような気がしてなりません。
たしかに自分の趣味趣向があうひとばかりが集えば、気持ちは楽だし、居心地もいいです。
しかし、この世の中は多様な人の集まりだから、そういうことを重視しすぎると、その多様性を認めることができなくなるような気がします。
宗教問題などは、まさにその最たるものではないでしょうか。
世界でおこる紛争の多くは、まさに自分との違いを認めない人どおしが織り成す結果であり、そこに人の不幸がもたらされています。
私たちの身のまわりも、戦争ほどではなくても、自分の趣味や思いだけでつくられたコミュニティーでは、自分以外のものを認めようとはしなくなります。
人はだれでも、望む望まないに限らず、コミュニティーを形成しなくてはなりません。でも、特に望まずしてできてしまったコミュニティーに属しても、そこから絶対に逃げてはいけないと思います。逃げないためには、覚悟して、そして、そのなかで良好な関係や大きな力が最大限発揮できるよう努力するしかないように思います。
そしてまた自分たちが好きでつくったコミュニティーでも、できるだけ多様な人を取り込んだ人で構成するほうが実は大きな力がはっきできるのではないかと思います。