いただきます | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

日曜日のNHKスペシャルをみてしまいました。(という表現が正しいと思います。)

和歌山の太地の人々が、鯨漁を何世代にもわたって行っていますが、環境保護団体などとぶつかりながら、それでも自分たちの文化を守ることに葛藤しながら、生活する姿を追っているドキュメントでした。

私は昔、鯨の皮が給食にでたことがあったのを思い出しましたが、それ以降は口にしたことがありません。店頭でいまや普通に買えるものではありませんので。


国際世論の中で、鯨を食す日本人が厳しい立ち場におかれていることも理解しているつもりです。しかし、鯨を食べることが野蛮だという論はいささか疑問を感じるところです。


ヒンドゥー教では、牛は、聖なるものとして、食してはいけないとされているそうです。
しかもヒンドゥー教信者は9億人おられますので、決してマイノリティーではありません。

では、牛を食す私たちは野蛮なのでしょうか。
ヒンドゥーを崇拝する人たちにとっては、牛を食すものは野蛮でしかないでしょう。


クジラ漁を反対だと言う人の中で、牛を食す人たちがいるのだとしたら、どう説明するのでしょうか。
もし、牛を食さないとしても、では牛を食す人たちに、野蛮だと言ってそれをやめさせることができるのでしょうか。
だから、それを非難することはできないと思うのです。

TVで、太地の人たちが、鯨に対して最後のいのちをいただく場面が、インターネットで公表されているところがでていました。その場面をみせることで、鯨をとること野蛮な人たちだと結論づけようとしているのかもしれませんが、これとて、家畜を解体するところを公表するような人も普通はいないでしょう。


こう考えると理屈にあわないことがたくさんでてくるのです。
だから、そういった理屈にあわないことがたくさんありながら、鯨は禁止だということに何ら説得力がないような気がしますが、マジョリティーにかき消され、一つの文化がなくなる寸前であるという事実。


人間は生きるために、必ず何かの生き物を殺生しなくてはならない。
それが、家畜であれ、野生動物であれです。

日本人は食べる前に、『いただきます』と言って食卓につきます。
それは、つまりそういった生き物のいのちをいただきますということです。
だから、命を奪って、私たちがいのちを継がせていただくことに最大の敬意を払わなくてはいけないと思います。

私たち日本人は、そういった節度をもっている人々です。
鯨の是非を問う前に、私たちの食べ物に対してのこころ構えにもう一度襟を正していくことが、このことから学ばなければいけないことだと思います。