医師不足の裏側にあること | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

最近、医師不足だということがしきりに言われている。


確かにそのとおりだと思うのだが、一つの例をとって、その裏側にあるものについて話をしてみたい。


先日、うちの地区にとある小学校が林間学校に来ていた。


滞在中に生徒が高いところから落っこちてしまい、額がぱっくり割れてしまった。


応急処置を済ませて、止血をし、本人も傷を負った以外は、意識もはっきりし元気であった。


しかし、ぱっくりと割れてしまった額をなんとかしなくてはいけない。


最寄の医療機関にたずねたところ、そこに医師がおらず、豊岡まで搬送しなくてはいけないということになった。


救急車を呼ぶかどうかがその場で話し合われたが、救急車が来るには20分以上の時間がかかるし、本人も意識があったので、自家用車で子どもを豊岡まで送ることになってしまった。


無事に子どもは送り届けられ、全部で7針縫うという治療を受け、とりあえずことは終息した。



さて、ここに、実は医療に関しての重大な問題が隠されているのだと私は思っている。


それは、近くの医療機関に医師がいなかったということではないし、救急車が来るまでに20分以上かかってしまう地域があり、医療体制が充実していないということでもない。


それは、私たちが医療というものに対して持っている考え方だ。つまり、ケガや病気という問題を医療側になすりつけてはいないかということだ。



実は、最寄の医療期間に電話をかけたとき、近くには医師がいたのだが、相手が子どもであるということで断られてしまった。私は、ここで、その医師が悪いということをいうつもりはない。


医師に直接聞いたわけではないのだが、つまり、子どもの専門医療を自分はできない(と思い込んでいる)ので、ことわらなくてはいけないということだったと思うのだ。


ことの仕組みはこうだ。いま、少しでも医療ミスをすると、医師の責任が問われてしまう。ケガや病気になる人は、もちろん自分がなりたくてなっているわけではないし、なるだけ、確実に治したいと思うのが本音だと思う。しかし、もし訴訟を恐れて確実な医療しかできないのであれば、それは、われわれ市民の側がもっとおおらかな気持ちをもって対応しなくてはいけないということだ。僕もよく知っているその医師は、普通の医療の場であれば、針で体を縫うなんてことは、朝飯前の行為だ。


では、ケガや病気をした人に責任はないのかといえばそうではないだろう。自分の不注意や、不摂生によって、病気や怪我のリスクが高まっているであれば、やはりそこに責任は発生するのだ。



そして、今回救急車を頼むことををしなかった。

救急車をお願いすれば、病院についてから、順番待ちをすることなく、スムーズに診察が受けられるという話をよく聞く。


また病人やケガ人に素人が適切な処置を施さなかったがゆえに、あとで大きな問題が発生するので、そこはプロである救急隊員に任せておくほうがリスクが少ないという話を聞く。


素人の判断とおしかりを受けるかもしれないが、救急医療が必要なのは、もっとも命の危険にさらされている人が利用すべきものであって、ケガや病気をしたからという理由で、利用するということはいかがなものかと思う。



人間は本来、もっと強くたくましいものだと思うし、そして、豊かな社会をつくりあげるというのは、そういう医療の仕組みの問題ではなく、自分達が生きる力を身につけていくことだと思う。


選挙を前にして、大きな声でそのことを言える候補者はいないと思う。そういう仕組みの問題が解決するのは、議員の大きな仕事であると誰もが信じて疑わないので、


「そりゃ医療機関もいままで以上に充実したほうがいいさ」

と思うのは、有権者の声でもあるだろう。


しかし、自分達の責任を果たし、自分達が本当にたくましく生きていくことということをもっともっと真剣に考える、我々市民でありたいと思うのだ。