ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

 

久しぶりに、神戸でのステイとなった朝、いつものとおり、散策を兼ねたジョグにでかける。

 

写真の向うに見えるのは、兵庫県立美術館だ。

周辺は、ウォーターフロントとして整備されている。

 

去年にはグリオンアリーナ神戸ができ、そのずっと前には、メリケンパーク、ハーバーランドと開発されていて、その周辺にも公園が整備され、人々の憩いの場となっている。

 

考えてみれば、神戸だけではないだろうが、都市はずっと開発され続け、新たな憩いの場が整備されてきている。

 

神戸市役所の北付近も大規模な開発が続き、きっと数年後にはそこにも新たな憩いの場所が誕生するのだろう。

 

都市の開発は永遠続いていくように思える。

 

兵庫県立美術館周辺整備は2001年9月のことらしく、すでに20年以上の年月がたっている。

 

一つ気がかりになることがあった。

それは、公園整備、つまり日常のメンテナンスがおいついてないことだ。

 

写真にあえてわかるように写した。

花壇になっているところは、もとは芝生だったところのように思われる。雑草が伸びて、おそらく手入れが間に合っていない。

 

昨日は、約9キロ散策したが、住宅街の間にも、ミニ公園がたくさんあったが、やはり手入れは行き届いてなかった。

 

AIに神戸市の公園面積について尋ねてみる。

答えは以下のとおり。

 

神戸市    17.7㎡/人
岡山市    16.8㎡/人
仙台市    15.5㎡/人
北九州市    12.8㎡/人
札幌市    12.7㎡/人
全国平均    約10.9㎡/人
大阪市    約3.5㎡/人
東京23区    約3.0㎡/人

 

なるほど、神戸の公園面積は圧倒的に多い。

神戸が人をひきつけてやまない理由はここにもあるのだと推測する。

 

だが…

 

である。

上述のとおり、公園というものは、物的に完成して『完成』ではない。特に、芝生があったり、植木があったり、相手は生きている。

 

そしてまた、植栽が植えられているからこそ、人を魅了してやまない公園でもあるのだが、それはメンテナンスができていてこその話だ。

 

人を惹きつけるために、新たなものを生み出すことは不可欠であろう。

 

しかし、それ以上に大事なのは、日々のメンテナンスを行き届かせ、まさに『生きた』公園として、整備し続けることだ。

 

世の中は人口減少局面にあり、神戸とて例外ではない。

人を惹きつけてやまない公園は、手入れされてこそ…である。

 

都市だけではないだろうが、これからのまちづくりでは圧倒的に地味なメンテナンスにどれだけ金をかけていくことが魅力のカギを握るというのが私の見立てだ。

先日、仕事で大阪に行っていたついでに、弟に会うことにした。

まわりは、マンションで囲まれ、大阪の中心地にも都会でも歩けるような距離だ。

 

近くの駐車場に止め、弟のマンションまで徒歩で移動していて、高速道路の高架をくぐっているときに、ホームレスらしき人の住処であろう場所を横目に通り過ぎた。その時間には誰もいなかった。

 

弟としばしの再会で数時間過ごしたあと、車に戻ろうと、また同じ高架をくぐっているとき、今度はボロボロの毛布にくるまって横たわっているホームレスを目撃することになった。

 

スルーした。

 

私同様、その高架を横切る人はそれなりにいたのだが、誰もその存在すら気づいていないのではないか…といった感じで通り過ぎていく。

 

弟のマンションは10階以上の階があり、隣にもマンションが林立している。


弟の住まいを中心に、100メートルぐるっと半径を描いたら、それこそうちのマチの相当の人口に匹敵するのだろうぐらいは住んでいるはずだ。

 

そして、その中に先のホームレスも存在している。

だけど、誰もその存在を認識しようとはしていない風景をみながら、頭は少しだけ錯乱状態に陥った。

 

無視をして通りすぎる自分。

まったく関心のない社会。

 

当の本人も、社会の中で認識されなくとも、平然と生きていくのだろう。

 

ぼくのムラにはそもそもホームレスが生きていける環境はないのだが(冬は寒すぎてたぶん死ぬ)、もし、そんな人がムラの一角に横たわっていたら大問題になっているだろう。

 

これってなんなんだろうと思った。

 

 

人にとって、一番つらいことは、無視されることだと何かで習った気がする。

 

その一番つらいことを平然でやってしまう自分。

そういう社会から放置されても生きているホームレス


かと言って手を差し伸べるほど、私は、いい人ではない…

 


いい人ぶって生きているが、それは見かけ倒しだ…



先日 7人ほどで夕食会を催した。

 

夕食会と言ってもそんな大層なものではなくそれぞれの人が自分で作った 逸品を持ち寄ってやる という かなり フランクなものだ。

 

その集まりの共通の趣味も趣向もなく、それぞれバラバラだが唯一 揃っているとすれば、それは地域に暮らすというその一点だけである。

 

約2時間ほどの楽しいひとときを過ごす。

 

そんな些細な会ではあったけれども 幸せな時間を過ごしたな という満足感に浸ることできた。

 

ふと思う。

地域につながりがあってこそのこの回だなと…。

 

都会の方で、近所の人が集まって、こんな会は開かれたりするのだろうかとも思ったりする。

 

地域にいると色々と面倒くさいことはたくさんある。

 

だがこうやって日々 地域の人と何かをやることで 信頼関係が生まれる。

 

ここには居酒屋もなければ、飲食店もほとんどない。

 

だから何か外食をするという発想も、そもそもない。

 

そういう場がないことに少し残念にも思うが、 みんなが集まって、楽しい場所をつくろうと思えば 、ちょっとだけ手間はかかるが、 みんなで仲良くする機会を作ることもまた可能なのだと改めて思い知る。

昨今のナフサ問題で、脚光を浴びたのがカルビーである。

最近噂のシルバー色のかっぱえびせんのパッケージを見た。

 

ナフサ原料の調達難に対し、カルビーがポテトチップスなどの包装用袋をモノクロにするというあの話だ。

 

私は、そのカルビーの行動の速さと同時に、優れたマーケティングだ!と感心した。

 

昨今、世の中には、いかに目立たせるかということが、マーケティングの主であるが、あまりにそれらが、行き過ぎて、かえって目立ちにくくなる中にあっては、モノクロはむしろ斬新で、目立つなと思ったからだ。

 

さて、今回の著作者は、そのカルビーの創業一族である松尾雅彦氏である。

 

この本を読み進めていくうちに、本気でこの会社は資源の枯渇に対して本気な会社だったのであって、奇をてらったのではないかという、穿ってみてしまった自分を恥じた。

 

松尾雅彦さんは、『日本で最も美しい村』連合のチャーターメンバーの一人でもある。

 

うちのマチでも香美町小代区が日本で美しい村連合の加盟地域の一つになっている。

 

私は、かねてから、この日本で美しい村連合に偉大なるあこがれを持ち続けていた。

 

それは、世の中が東京一極集中に突き進む中に、小さいながらも自分たちの町に誇りと気概を持ち続けることを、しっかりと対外的にも示しているのが、この日本で最も美しい村連合だからだ。

 

なぜ、小代だけで、同じマチの中にある我々が住むムラオカも加盟地域として目指せないのか、目指さないのかと半ば憤りにも似たなんともやるせない気持ちを感じるのだ。

 

この著書の中で、農業を基本として、自らが自立するためのその手法についてもこと細かに記載がある。

 

地方には田畑、森がある。

それらを最大限に活用した、地域づくりができているとは到底言い難いのだ。

 

そして、耕作放棄地の広がりさえもそれはチャンスだとみる。

また、非常に農業思想が米づくり一辺倒に偏っていることも問題と説く。

 

これまで、なぜか都会的な思想を村にも持ち込み、そのミニチュア版のようなものをつくろうとしてきていた。しかし、そもそも人口規模が小さなところがそのような真似をしたところで、到底、その本場である都市になり切れるものではない。

 

ここでは、その手法について、いちいちとりあげることはしない。しかし、この著書で一番感じているのは、地方のそれぞれが自分の足元をしっかりと見つめ、その地域特性を見極めつつ、されど農業というものを基盤として地域の発展につなげていくということだ。米自給率は、ほぼ100%近いところにあり、自給率の低い農産品に転換していくこと。

特に、日本人として、米の次にさまざまな用途として利用している大豆などをつくるべきとも。

 

地域に加工場をつくっていくこと。

消費者目線で、何が求められるかを考えること。

食料自給圏を構築すること。

 

数年前より手習いで、田んぼを作っている。素人百姓で大したことはないのだが、それでも重労働で過酷だ。そうやって身に染みているからこそ、農業のある地域の可能性を見ていることに、希望を感じた。

これから 語ろうとしていることは美術 ド素人の単なる 戯言だと思って 聞き流していただきたい。。

 

 僕自身は絵画や美術に対する見識やそれを全く持ち合わせていないが たまにふいとアートを見に行きたくなることがある。

 

以前 直島の地中美術館に行って モネの睡蓮の作品を見たことがある。

 

 横幅が 約6m 高さ2m ほどの大きなキャンバスに書かれたスイレンの池が描かれた絵だ。

 

かなり、大きな部屋にどーんと構えられているが、もちろん近くまで寄ってみることも可能だ。

 

近づいてみたり、遠ざかってみたり…

距離をいろいろと変えながら、その絵とむきあった。

 

最も至近距離でみる絵は、一筆一筆 ある意味 殴り書きのように絵を書いているようにも思えた。そして、さまざまな色が入り混じっていた。

 

しかし 1m 離れ 2m 離れ さらには 5m 10m と離れていくと スイレンやイケア 葉っぱが ありありと リアリティを持って 浮かび上がらせ そして 印象派の と呼ばれるごとく その絵描きとしてのフィルターを通した写真では表現 童貞 できない その世界観が浮かび上がらせて売られていく。

 

私のド素人的考えではおよそ 全ての筆致が必然的だとは到底思えなかった。あの 筆の運び方は本当に全ては必然的な筆の運びだったんだろうか。

 

 頭より先に手が動き 絵の具 も 何対何で青や緑を混ぜたわけではなくなんとなくなんとなくその色を組み合わせ 塗り そしてまた次の色を重ねていきそうして偶然と偶然が積み重なった上で モネの必然的なアートの世界が浮かび出されたように感じるのだ 。

 

そう考えていくと 我々の生きていく世界もとても ロジカルで必然的なもののように社会は動いてるように思わず思われがちだがきっと頭より先に体が動き 偶発的なものと 偶発的なものが 重ね合わされながら必然というものが生み出されていくということもおおにしてあるように思う。

 

会計だ、機械だ、およそ計算され尽くしたもののように見えるが、 余白のないようなものに見えられるものでも頭より先に体が動き それを積み重ねて行った中で必然というものはみ出されているように思えてくる。

 

そう考えると、私たちが何かを生み出していくことは、考えて考え抜いて進めていくだけではなく、頭よりも先に、本能のおむむままに、いや思考と、体をまったく分離させ、まさに細胞がもつ意思を頼りに物事を進めていくこともまた重要なのだということだ。