近現代日本庭園を巡る京都散歩 無鄰菴と光明院 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

そういえば、ヴァーグナー聖地を巡ったスイス旅行(その記事はこちらこちら)以来、旅日記を書いていなかった。

今回、京都を代表する近現代日本庭園2ヶ所に遊びにいったため、せっかくなので少し記録しておきたい。

 

 

 

 

 

【明治時代の日本庭園 無鄰菴】

 

 

七代目小川治兵衞(1860-1933)が、山縣有朋の依頼でその別邸に明治29年(1896年)に作庭した日本庭園。

遠くの東山を借景として広大さを演出、また苔よりも芝生を主とした明るい庭地に、池でなく(琵琶湖疏水の豊富な水源を利用して)躍動感ある水の流れが配されている。

江戸時代の伝統的な庭園とは異なる、自然主義的な近代日本庭園の代表的名作、とのこと。

確かに、モネの庭にも比べられるような明るさ、爽やかさで、大変美しい。

山縣有朋の好みがかなり反映されているらしく、山縣有朋のアイディア力・西洋志向と七代目小川治兵衞の職人技・美的センスとの共作といえるかもしれない。

 

 

 

動画撮影禁止のため、静止画で。

水の流れに小さな段差を作って、せせらぎの音が聞こえるよう設計されている。

ずっと聞いていたくなる、癒やしの音である。

 

 

 

庭園の奥から母屋の方向を見た風景。

 

 

 

左が茶室、右が洋館。

洋館2階では、日露戦争開戦前の1903年4月21日にいわゆる「無鄰菴会議」が開かれ、山縣有朋のほか伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎が集まり会談を行った。

 

 

 

洋館のほうから見た母屋の様子。

 

 

 

座敷の様子。

 

 

 

入口の様子。

 

 

 

 

 

【昭和時代の日本庭園 光明院 波心庭】

 

 

重森三玲(1896-1975)が、東福寺の塔頭の一つである光明院に昭和14年(1939年)に作庭した日本庭園。

上述の無鄰菴に代表される明治時代以来の自然主義的な近代日本庭園からの脱却を図り、伝統的な枯山水に回帰しつつ、個性的な模様や石組みでモダンに仕上げた、象徴主義的な現代日本庭園の代表的名作、とのこと。

確かに、独創的でありながらも奇抜すぎない、日本固有の侘び・寂びを活かしつつ独自の渋い美感を備えた空間となっている。

 

 

 

庭園の様子(動画)。

美しい京都の描写が印象的だったドラマ「いりびと -異邦人-」(その記事はこちらこちら)、そのロケ地として使用されたこの光明院は、主演を務めた高畑充希の大のお気に入りの地とのこと。

上述の無鄰菴のように明るく爽やかな庭園ではなく、こちらの波心庭のように少し独特な渋い庭園を気に入るあたりが、何だか彼女らしい(無鄰菴はロケ地ではなかったからというのもあるが)。

確かに、とても落ち着く空間であり、ここでのんびりと庭を眺めながらいつまでも過ごしていたいと感じた。

 

 

 

庭園の奥から本堂の方向を見た風景。

 

 

 

座敷の様子。

 

 

 

入口の様子。

 

 

 

 

 

【番外編】

 

 

文久元年(1861年)創業の「松葉」で食べた、冷やしにしんそば。

 

 

 

享保11年(1726年)頃創業の「鍵善良房」で食べた、くずきり。

 

 

 

黒蜜か白蜜かどちらかを選べるが、今回は黒蜜を選んだ。

 

 

 

明治40年(1907年)架橋の古川町橋(行者橋、一本橋)。

最初の架設年は不明で、文献上の初出は天明6年(1786年)とのこと。

上述のドラマ「いりびと -異邦人-」でもロケ地として使用され、菜穂(高畑充希)と樹(SUMIRE)が再会するシーンで大変美しく描写された。

 

 

 

遅くとも江戸時代前期~中期には行われていたとされる、五山送り火(写真は大文字)。

 

 

 

同じく五山送り火(動画)。

あかあかと燃える大文字を見ながら、祖霊の安らかならんことをお祈りした。

 

 


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