大阪フィルハーモニー交響楽団
第541回定期演奏会
【日時】
2020年9月26日(土) 開演 15:00 (開場 14:00)
【会場】
フェスティバルホール (大阪)
【演奏】
指揮:沼尻竜典
メゾ・ソプラノ:中島郁子 ※クリスタ・マイヤーの代役
テノール:望月哲也 ※シュテファン・ヴィンケの代役
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
(コンサートマスター:崔文洙)
【プログラム】
武満徹:オーケストラのための「星・島」
三善晃:交響詩「連禱富士」
マーラー:交響曲「大地の歌」
大フィルの定期演奏会を聴きに行った。
指揮は、好きな指揮者の沼尻竜典。
彼が大フィルを振るのは珍しく、しかもプログラムは前半が日本人作曲家の作品、後半が中国の詩に基づいて作曲されたマーラーの「大地の歌」、と東洋をテーマにした粋なもの。
そんなわけで、今年度の大フィルの定期演奏会の中でも、5月に予定されていたがコロナ禍で中止になったデュトワ公演(ハイドン「ロンドン」、ラヴェル「クープランの墓」、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」)と並んで楽しみにしていた。
最初の曲は武満徹の「オーケストラのための星・島」だったが、この曲は用事のため聴くことができなかった。
次の曲は三善晃の交響詩「連禱富士」。
聴き慣れない曲だが、日本人にとっての精神の根源の一つである富士山への祈りが込められているという。
ただ、祈りといっても、例えば武満徹の静的な音楽と比べると、強音を基調とした音楽であった。
「タッタカタッタカ」といったショスタコーヴィチ風のリズムが出てくるが、ショスタコーヴィチのような軍楽調よりもむしろ「ドンドコドンドコ」といった和太鼓のリズムを想起させ、良くも悪くも和風の印象。
沼尻竜典&大フィルの演奏は、この曲の色々な楽器の音を際立たせ、すっきりと面白く聴かせてくれるものだった。
休憩をはさんで、最後の曲はマーラーの交響曲「大地の歌」。
この曲で私の好きな録音は
●クルマン(Ten) トルボルイ(Alt) ワルター指揮 ウィーン・フィル 1936年5月24日ウィーンライヴ盤(CD)
●デルモータ(Ten) カヴェルティ(Alt) クレンペラー指揮 ウィーン響 1951年3月28-30日セッション盤(NML/Apple Music)
●パツァーク(Ten) フェリアー(Alt) ワルター指揮 ウィーン・フィル 1952年5月15-16日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ヴンダーリヒ(Ten) ルートヴィヒ(Alt) クレンペラー指揮 (ニュー・)フィルハーモニア管 1964年2月19-22日、11月7-8日、1966年7月6-9日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●キング(Ten) F=ディースカウ(Bar) バーンスタイン指揮 ウィーン・フィル 1966年4月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●シャーデ(Ten) ウルマーナ(Alt) ブーレーズ指揮 ウィーン・フィル 1999年10月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●フォークト(Ten) ゲルハーヘル(Bar) ナガノ指揮 モントリオール響 2008年セッション盤(Apple Music/CD)
●スペンス(Ten) コノリー(Alt) ネゼ=セガン指揮 ロンドン・フィル 2011年2月19日ロンドンライヴ盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
たくさん挙げすぎてしまったが、これらは大雑把にはワルター・タイプとクレンペラー・タイプの2つに分けられるように思う。
ワルターとクレンペラーはともに19世紀生まれの巨匠指揮者だが、前者は細かなニュアンスをつけて豊かな感情表現を行うのに対し、後者は逆に細かなニュアンスづけを避けフレーズを均質にして純音楽的な表現を行う。
そして、20世紀前半生まれのバーンスタインは前者、ブーレーズは後者のタイプ。
20世紀後半生まれのネゼ=セガンは前者、ナガノは後者のタイプ。
大まかにいうと、こうした分類が可能ではないだろうか。
そして今回の沼尻竜典&大フィルは、その後者のタイプの純音楽的な演奏であった。
そして、同じタイプのクレンペラー、ブーレーズ、ナガノの名盤にも決して劣らない、相当な名演だった。
純音楽的なアプローチということで、マーラー晩年の苦悩の叫びなどは望むべくもないが、その分マーラー晩年の込み入った作曲技法の妙をしっかりと堪能させてくれる。
第1曲冒頭のホルン(高橋将純)といい、第2曲冒頭のオーボエ(浅川和宏)といい、力むことも緩むこともない、端正できりりと引き締まった禁欲的なアプローチが好ましい。
第1曲や終曲の間奏部分も、つややかでありながらすっきりと透明な響きで音が整理され、美しくまた完成度高く仕上げられていた。
普段の大フィルはヴァイオリン群とフルートの田中玲奈が頭一つ抜けている印象で、ついそればかり聴いてしまうことがあるが、今回は違った。
もちろんヴァイオリン群はいつもながら美しかったし、田中玲奈に至っては、終曲に2回あるフルートソロのパッセージで、上記の名盤の数々においても聴かれないほどの、継ぎ目のない絹布のようにあまりにも滑らかな、ぴんと張りつめた静寂のなか美しい緊張感を湛えた、完全無欠の演奏を聴かせてくれたのではあった(沼尻竜典が終演後に最初に起立させ称えたのも彼女だった)。
しかし、今回は沼尻竜典の指揮のもと、何かのパートが突出するというよりは、管も弦も打もハープもチェレスタも、あらゆる楽器がバランスよく活かされ、何気ないひとくさりの音の重なりから豊かなハーモニーが生まれたり、トリルのような細かな音型が繊細かつ明瞭に浮かび上がったりした。
なお、歌手2人は声量面、音程面など上記の各名盤に及ばないものではあったが、代役を担当してくれただけでもありがたいし、オーケストラの美しさのためかそれほど不満を感じなかった。
ともあれ、今回の沼尻竜典の演奏は、これまで聴いた大フィルの演奏会(こちら)の中でも、ヤングのブラームス交響曲第2番(その記事はこちら)、フルシャのショスタコーヴィチ交響曲第10番(その記事はこちら)、デュトワのベルリオーズ幻想交響曲(その記事はこちら)などと並んで、5本の指には入るであろうものとなった。
もし録音していたならば、ぜひ発売してほしいものである。
(画像はこちらのページよりお借りしました)
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