大阪フィルハーモニー交響楽団 第504回定演 フルシャ ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

大阪フィルハーモニー交響楽団 第504回定期演奏会

 

【日時】
2016年12月8日(木) 19:00開演(18:00開場)

 

【会場】
フェスティバルホール(大阪)

 

【演奏】
<指揮> ヤクブ・フルシャ
<独奏> 河村尚子(ピアノ)
<管弦楽> 大阪フィルハーモニー交響楽団

 

【曲目】
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 作品93

 

※アンコール
スカルラッティ:ソナタ ヘ長調 K. 17

 

 

 

 

 

この演奏会は、本当に素晴らしかった。

今年行ったたくさんの演奏会の中でも、五本の指には確実に入るだろう。
フルシャという指揮者は、オススメだよと友人に教えてもらい、CDでスメタナの「わが祖国」やドヴォルザークの弦楽セレナードなどを聴いて以来、すっかりファンになってしまっていた。
自然で無理がなく、そして大変美しい音楽づくりは、他の指揮者からは聴かれないものである。
フルシャは、都響の首席客演指揮者なのだが、都響とのライヴ録音であるベルリオーズの幻想交響曲やR.シュトラウスのアルプス交響曲のCDも大変に素晴らしく、日本のオーケストラなのにベルリン・フィルにだってひけを取らないほどの美しさである。
そんなフルシャが、今回大フィルを振ってくれる(これまでもちょこちょこ客演していたようなのだが、私は聴きに行ったことがなかった)。
そんなわけで、このコンサートを心待ちにしていた。

 

前半は、ピアニスト河村尚子との共演で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
大フィルも都響のように、フルシャの手によって魔法のように美しい音が出るのではないか、と期待しすぎたのが悪かった。
冒頭のピアノ・ソロの後に続くオーケストラの音を聴いて、まぁ割と普通かな、と思ってしまった。
やっぱりさすがに魔法は無理か、と過度な期待を反省し、気を取り直して聴くと、とても自然な演奏で、これはこれで好感が持てた。
河村尚子のピアノは、ペダルが薄めでからっとした、ロマン的というよりは古典的な演奏で、べたつかず好印象だった。
急速なパッセージでも指送りなど滑らかで、さすがだった。
こんなことを書くと、プロなんだから当然ではないか、ばかにしているのか、とお叱りを受けそうだが、実はプロでもこういった指送りが完全に滑らかとはいえないケースが意外と多いと私は思う(特にペダルが薄めの場合はなおさら)。
バックハウスのような大巨匠だって、例外ではない。
大したものだと思う。
ただ、歌い口に関しては、例えばアンスネスのようにあまりにも自然で滑らかで美しく非の打ち所がない、というところまでは行っていなかったようには思うが。
まぁでも多少のゴツゴツは、ベートーヴェンならありかもしれない。
彼女のゴツゴツに呼応してか、フルシャの指揮も第2楽章など彼らしからずけっこう物々しい感じで、また終楽章の最後の和音もベートーヴェンらしい気合が入っていて、ソリストの雰囲気に合わせているのかなぁと感心した。
アンコールのスカルラッティでは、河村尚子のペダルの薄さ、からっとした爽やかさ、急速なパッセージの滑らかさが最高度に発揮され、実に素晴らしかった。

 

そして、メイン・プロはショスタコーヴィチの交響曲第10番。
かのカラヤンも録音しているように(ショスタコーヴィチの交響曲の中では唯一)、この曲はショスタコーヴィチの中では珍しく、いかにもロシアロシアした演奏でなくともサマになりやすい曲ではないかと思う。
フルシャには、合っている曲ではないだろうか。
そしてこの演奏こそ、さっきのベートーヴェンで期待してやや肩透かしになってしまった、フルシャの「魔法」が感じられた。
最初のうごめくような低弦の静かなパッセージからして、普段とは音が違う。
緊張感、充実感がみなぎっているのである。
あれ、さっきのベートーヴェンの演奏とは一味違うぞ、と思っている間に、曲は低弦からヴァイオリンへと広がっていき、そして序奏が終わってクラリネットにより第1主題が奏される。
この頃にはもう、私は確信していた。
やっぱりフルシャは、「魔法」を持っている、と。
いつもの大フィルとは段違いに、音が美しいのである(もし都響であれば、もっと美しいのだろうが)。
第1主題を奏するクラリネット奏者は、ブルックス・トーン。
彼の演奏はもちろんいつも素晴らしいのだが、今回は自然な歌い口でまったく無理がなく、あからさまな味付けはしないのにニュアンスに満ちていて、いつにも増して美しかった。
これも、フルシャの影響だろうか。
そして第1主題は、ヴァイオリン等に受け継がれ、次第に盛り上がっていく。
こういった一連の流れが、もう本当に美しい。
その後は少し変わったリズムの第2主題をフルートが奏し、ヴァイオリンが受け継ぐのだが、これがまたため息が出るほど美しく、この頃になるともう完全に別世界に連れてこられたかのような気分になっていた。
曲はその後どんどん盛り上がり、呈示部・展開部を経て再現部へ突入する部分がその頂点となるのだが、この流れの中でフルシャは圧倒的な盛り上がりを見せるにもかかわらず、その音は決して汚くならず、うるさくならず、美しく純粋な音の洪水が、私たち聴き手を圧倒するのである。
同様に、例えば第2楽章なども、とてつもない大音量で激しく通りすぎる、急速でせわしないスケルツォ風の楽章なのだが、フルシャはここでも曲想の示す通り、アップテンポかつ強音で思う存分に盛り上げるにもかかわらず、その美しさは少しも損なわれない。

 

私は、この同じ曲を今年の10月にも聴いたが、そのときにはヴェデルニコフの指揮、PAC(兵庫芸術文化センター管弦楽団)の演奏だった。
そのときは、ショスタコーヴィチらしい、あの時代のロシアらしい情念の表出を感じた。
それに対し、フルシャの演奏からは、そういったドロドロした情念はあまり感じない。
むしろ、あまりにも自然で、あまりにも均衡が取れ、あまりにも美しい、音楽そのものの高まり、そういったものを感じる。
そういった意味では、カラヤン盤に共通したものがあるといえるだろう(ただ、カラヤンの演奏にみられるような重厚さはフルシャにはなく、もっとすっきりしているのだが)。
どんなに大きな規模の音楽であっても、また激しい音楽であっても、泥臭くなったり、こてこてになったりすることなく、音楽を高い完成度で細部から全体に至るまで磨き上げ、まるで一つの建築物、大伽藍のように屹立させる、そんな音楽家が、数少ないが存在する。
カラヤンやアバドは、おそらくそういった音楽家の好例だろう。
そして、私はそんな音楽家として、フルシャも挙げたいのである。
さっき私は、フルシャのあまりの見事さに「魔法」という表現を思わず使ってしまったが、それは魔術のように奇妙な音楽という意味ではない。

フルシャの手によってできあがった音楽は、決して特殊なものではなく、極めて自然体で、奇を衒ったような箇所は微塵もなく、なおかつ完成度が高い。

作品そのものの素晴らしさを少しも崩すことなく、まるで春の風のように爽やかに、またまるでクリスタルのような純粋なかたちで、呈示してくれるのである。
これほどまでのバランス感覚を持ち合わせた音楽家は、他に誰がいるだろうか。

 

フルシャはまだ35歳と若く、キャリアもまだまだこれからと言っていいだろう。
そして世間が彼の才能を順当に評価するのであれば、彼は近い将来、重要な役職につき、また世界中の主要オーケストラを指揮するようになるだろう。
日本に来てくれる機会も、減ってしまうかもしれない。
今のうちに、彼のコンサートにはできるだけ行っておきたいと思う。
そして、彼の指揮する都響の演奏も、今後ぜひ聴いてみたいものである。