エルサレム交響楽団 大阪公演 西本智実 マーラー 交響曲第5番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

西本智実指揮 エルサレム交響楽団

 

【日時】
2016年12月4日(日) 14:00 開演

 

【会場】
ザ・シンフォニーホール

 

【演奏】
[指揮] 西本智実
[チェロ] ドミトリ・ヤブロンスキー
[管弦楽] エルサレム交響楽団

 

【プログラム】
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 op.104
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調

 

※アンコール(ソリスト)
サン=サーンス:「動物の謝肉祭」より 白鳥

 

 

 

 

 

西本智実は、私の特に好きな指揮者の一人である。
マーラーの第5番についても、西本智実指揮ロイヤル・フィルのCDは私の愛聴盤である。
そんなわけで、大いに期待して聴きに行った。

 

前半のプログラムは、ドヴォルザークのチェロ協奏曲である。
チェリストにとっては、避けて通れない超有名曲。
私にとっては、やや耳タコというか、それほど大好きとはいえない曲になってしまっている。
しかし、そんな曲でも西本智実の手にかかると、ドラマティックかつぴりっと引き締まった演奏になるのがすごい。
ソリストは、ドミトリ・ヤブロンスキー。
ピアニストのペーテル・ヤブロンスキーと同姓のチェリストだが、私はその名も聞いたことがあるようなないような状態で、ほとんど知らなかった。
しかし聴いてみると、なかなか良かった。
特に高音部が輝かしく、ヴィブラートもたっぷりとかけられた分厚い音であり、その点ではかつての巨匠ロストロポーヴィチを少し思わせるところがあった。
ただ、演奏のスタイルとしてはかなりそっけないものだった。
三連符によるアルペッジョ(分散和音)の速い走句など、弾き飛ばしているような感があった。
第1楽章のコーダも、ロストロポーヴィチの録音ではここぞとばかりにたっぷりと強く弾いて存在感を出しているのだが、ヤブロンスキーはさらっと通りすぎて行ってしまう。
音色の輝かしさと、そっけない演奏スタイルとのギャップが、なかなか面白かった。
アンコールの「白鳥」は、説明するまでもないチェロのための珠玉の名曲で、ハープの伴奏を伴いながら美しく奏された。

 

そして、メイン・プロはマーラーの交響曲第5番。
この曲は、今年の6月にカンブルラン指揮、読響による圧倒的な演奏を聴いたため、ハードルが高くなってしまっている。
しかし、西本智実はそれに劣らぬ演奏を聴かせてくれた。
エルサレム交響楽団というオーケストラは今回初めて聴いたのだが、それほどレベルの高い団体ではないと感じた。
上記の読響の方が、よほど洗練されていた。
しかし、そのようなオーケストラであっても、西本智実はしっかりと自身の音楽表現を実現していた。
彼女はカンブルランのように、マーラー特有の複雑な対位法的書法を、冷静にクリアに透かして見せるような、まるでシェーンベルクら後続の20世紀の音楽の方向性を指し示すかのような演奏は、しない。
また逆に、バーンスタインのように、またマーラーの有名なカリカチュアが示唆するように、すさまじい爆発のような激しい表現や、どこまでも沈潜していくような深い表現といった、極端に起伏の大きなロマン的・激情的な演奏も、しない。
西本智実のマーラーは、一言でいうと、古典的フォルムを崩さず、それでいて劇的なマーラー、なのである。
世に数多ある個性的なマーラー演奏の数々に慣れていると、一見「普通すぎる」「物足りない」演奏に思えてしまうかもしれないが、それは違う。
曲本来の造形を最大限に尊重しながら、なおかつきわめて劇的な表現を彼女はやってのけるのだ。

劇的と言っても、例えばインバルのように武骨な感じではなく、もっと垢抜けて、整っている。

そのことは、第1楽章の冒頭、トランペットのソロで警句的に始まり、一気に盛り上がって最強音になったのち、再度一気に叩き落されて静かに地の底を這う、といった開始を一聴しただけで、すぐに分かる。

こういった目まぐるしいドラマが、一定の安定した形式感のもとで、存分に繰り広げられるのである。

同じことが、他の楽章に関してもいえる。
第4楽章は、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」にも使われた、名高い美しい楽章だが、ここで例えばバーンスタインが意外にもおとなしい演奏をしているのに対し、西本智実はもっとずっとロマン的な表現をしており(甘くたっぷりとしたグリッサンドさえある!)、この楽章にふさわしい。
そして、終楽章。
ここでも彼女は曲のフォルムを崩すことがないが、聴き手の気づかぬうちに次第に曲を盛り上げていき、最後のコーダでは圧倒的なテンポ・迫力で終わりを迎えるのである。
こういった、曲の構成と内面の情熱との絶妙なバランス感覚こそ、西本智実の持ち味といって良いだろう。
演奏の完成度としては、オーケストラの問題もあり、カンブルランには及ばなかった(というより、カンブルランが驚異的な完成度に達していた)。
しかし、もしオーケストラが、CDにおけるロイヤル・フィルのような、より上質な団体であったならば、もしかしたらカンブルランの演奏を超える感動が得られていたかもしれない。
そんな演奏が、またいつか聴きたいものである。