名古屋フィルハーモニー交響楽団 474回定期 カンブルラン ストラヴィンスキー ペトルーシュカ他 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

名古屋フィルハーモニー交響楽団

第474回定期演奏会

〈「マスターピース」シリーズ/舞踊の傑作〉

 

【日時】

2019年12月7日(土) 開演 16:00

 

【会場】

愛知県芸術劇場 コンサートホール (名古屋)

 

【演奏】

指揮:シルヴァン・カンブルラン

カウンターテナー:藤木大地 *

ピアノ:野田清隆 #

管弦楽:名古屋フィルハーモニー交響楽団

(コンサートマスター:日比浩一)

 

【プログラム】

デュカス:バレエ「ラ・ペリ」

酒井健治:ヴィジョン-ガブリエーレ・ダンヌンツィオに基づいて [委嘱新作、世界初演] *

ストラヴィンスキー:バレエ「ペトルーシュカ」 [1947年版] #

 

 

 

 

 

名古屋フィルの定期演奏会を聴きに行った。

好きな指揮者、シルヴァン・カンブルランが出演するからである。

先日の京響(その記事はこちら)に引き続き、広響に名フィルと、カンブルランが日本のオーケストラを最近次々と振ってくれているのは大変嬉しい。

 

 

最初の曲は、デュカスの「ラ・ペリ」。

この曲で私の好きな録音は、

 

●ブーレーズ指揮 ニューヨーク・フィル 1975年セッション盤(Apple MusicCD

●カンブルラン指揮 SWR響 2004年2月セッション盤(NMLApple MusicCD

 

あたりである。

今回のカンブルラン&名フィルの演奏は、冒頭のファンファーレこそ少々危なっかしくて心配になったけれど、主部以降は弦も管も大変美しく調和し(特に弦が良い)、至高のハーモニーが聴かれた。

 

 

次の曲は、酒井健治の委嘱新作、「ヴィジョン-ガブリエーレ・ダンヌンツィオに基づいて」。

19世紀生まれのイタリアの詩人ダンヌンツィオの詩に基づく、カウンターテナーとオーケストラのための3楽章形式(ただし切れ目なく歌われる)の歌曲である。

IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)での活動経験もある気鋭の作曲家、酒井健治。

彼の曲を聴くのはおそらく初めてだが、今回の曲は例えば細川俊夫の先鋭的な作風と比べると、主音もあれば調性もある、耳になじみのよい音楽だった。

調性といっても、どこかメシアンを思わせるような、独特の音階。

また、次のプログラムのストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」に共通するような、各楽器ごとに独立した繰り返し音型の絡み合いが聴かれた(「ペトルーシュカ」よりもだいぶゆったりしたテンポだが)。

それでいて、曲調はメシアンやストラヴィンスキーよりもずっと陰鬱で、ロマン的と言うべきか、R.シュトラウスの「サロメ」やベルクの「ルル」のような表現主義的な要素も感じられた。

オリジナルなセンスの感じられる、なかなかに聴きごたえのある曲ではないだろうか。

こうした印象は、各楽器の複雑な音の動きをクリアに美しく浮かび上がらせるカンブルランの手腕によるところも大きいだろう。

カウンターテナーの藤木大地も、とりわけ強い印象を残す声ではないものの、オーケストラの各楽器とうまく調和した歌を聴かせてくれた。

 

 

休憩をはさんで、最後の曲はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。

この曲で私の好きな録音は、

 

●ブーレーズ指揮 ニューヨーク・フィル 1971年5月セッション盤(Apple MusicCD

 

あたりである。

また、実演では2年前のカンブルラン指揮、洗足学園音楽大学管弦楽団による圧倒的な名演が今でも忘れがたい(その記事はこちら)。

今回のカンブルラン&名フィルの演奏は、悪くはなかったものの、あのときほどの感激は得られなかった。

先ほどのデュカスや酒井健治の曲に比べると、この「ペトルーシュカ」はおそらく技巧的に相当難しいのだろう。

特に(この曲において重要度の高い)管楽器が皆いっぱいいっぱいといった様子で、カンブルランの意図するハーモニーの妙味を完全には実現しきれていなかった感がある。

フルートはかすれ気味で、トランペットは弱々しい。

他の管楽器も、またピアノやソロ・ヴァイオリンも、もう少ししっかりと浮かび上がってきてほしかった。

洗足学園のときの、あの美しくも強烈な「ペトルーシュカの動機」や、燦々と降り注ぐ陽光のごとき謝肉祭の市場の音楽は、今回はその片鱗が聴かれるのみ。

弦楽器はまだかなり良かったが、それでも洗足学園ほどのトゥッティ(総奏)の純度の高い響きや、終盤の弱音のトレモロの鳥肌が立つような透明感が感じられたかというと、そこまでではなかったのが正直なところ。

この違いは、個々の楽団員のレベル差というよりは、準備期間の差に起因するのかもしれないが、実際のところは私にはよく分からない。

 

 

 

(画像はこちらのページよりお借りしました)

 

 


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