(クルレンツィスの新譜 マーラー 交響曲第6番) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

好きな指揮者、テオドール・クルレンツィスの新譜が発売された。

オーケストラはムジカエテルナ、曲目はマーラーの交響曲第6番である(Apple MusicCD)。

詳細は以下の通り。

 

 

 

 

 

交響曲第6番『悲劇的』 テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ

 

 


ギリシャの鬼才テオドール・クルレンツィスが放つ最新作は、
マーラーの『悲劇的』。それは運命の一撃となるか?


2017年度の音楽之友社主催「レコード・アカデミー賞」堂々2部門(大賞:チャイコフスキー/悲愴、銀賞:モーツァルト/ドン・ジョヴァンニ)受賞という快挙をなしとげたギリシャの俊英テオドール・クルレンツィスの新作は、前作に続きまたも「交響曲第6番」。
 今回は爛熟したロマンの香りを放つマーラーの『悲劇的』というタイトルを持つ第6交響曲。クルレンツィスはマーラーの交響曲をいくつかコンサートで取り上げていますが、ディスクとしてはこれが初のマーラー交響曲録音となるもの。チャイコフスキー『悲愴』やストラヴィンスキー『春の祭典』といったディスクでロマン派以降の大オーケストラの機能性を駆使した多彩なオーケストラの魅力を掘り起こしてきたクルレンツィスとムジカエテルナが、ハンマーをも楽器にしてしまったマーラーの巨大な管弦楽作品とどのように向かい合うのか、興味は尽きません。(輸入元情報)(写真 輸入元提供)

【収録情報】
● マーラー:交響曲第6番イ短調『悲劇的』


 第1楽章:アレグロ・エネルジコ、マ・ノン・トロッポ(激しく、しかしはっきりと) [24:57]
 第2楽章:スケルツォ(どっしりと) [12:49]
 第3楽章:アンダンテ・モデラート [15:39]
 第4楽章:フィナーレ(ソステヌート - アレグロ・モデラート - アレグロ・エネルジコ) [31:06]

 ムジカエテルナ
 テオドール・クルレンツィス(指揮)

 録音時期:2016年7月3-9日
 録音場所:モスクワ、Dom Zvukozapisi(house of recordings)
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)

 

 

 

 

 

以上、HMVのサイトより引用した(引用元のページはこちら)。

 

 

聴いてみての感想は、確かに良いことは良いのだが、これまでの彼の演奏ほどの大きな衝撃はなかった、というのが正直なところ。

 

 

例えば、以前の記事に書いたが(そのときの記事はこちら)、チャイコフスキーの「悲愴」においては、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル盤の一気呵成の演奏を、現代風に精緻かつすっきりとリニューアルして提示したような、同曲の代表盤の一つたりうる演奏だと感じた。

それに対し、今回のマーラー第6番では、例えばバーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤と並び称されうる演奏かといわれると、残念ながらそこまでには至っていない気がする。

 

 

これは、なぜか。

一つには、バーンスタイン盤がすごすぎる、というのがあるかもしれない。

バーンスタインの振るマーラーは、曲によっては世紀末的な悲壮趣味、巨大趣味があまりにも目立ち、アバドらの穏やかな解釈が恋しくなることがないではない。

しかし、こと交響曲第2、5、6番の3曲においては、バーンスタインのそうした要素が曲の悲劇的な性質によく合って、他を寄せつけない名演となっている。

第6番の第1楽章冒頭の、「ザッ、ザッ、ザッ、…」という低弦による刻みの分厚さ。

同曲の終楽章冒頭数小節目の、「ダン、ダン、ダダンダンダン」というティンパニによる運命的なモチーフの強烈さ。

どこを取っても、すさまじいというほかない。

ただ迫力があるだけでなく、マーラー演奏において望ましい、近代的な機動力にも欠けていない(ウィーン・フィルのすごさでもある)。

これと比較すると、大半の演奏は色あせてしまう。

 

 

また、もう一つには、クルレンツィスの持ち味を生かしにくい曲、ということもあるかもしれない。

もともとどっしりと重い、引きずるような歩みをもつ曲なので、前回のチャイコフスキーの「悲愴」のように速いテンポと推進力で攻めようとすると、軽くなりすぎるおそれがある。

そのためか、彼らしく歯切れのよい演奏となってはいるものの、いつものようにやりたい放題というよりは、彼にしてはやや抑制的な表現となっている。

ムジカエテルナも、もちろんさわやかで良いのだが、ピリオド楽器の団体ということもあり、こうした巨大な曲ではウィーン・フィルの威力に敵わない面もある。

 

 

とはいえ、完成度は高く、ロマン的な表現も聴かれ、決して駄演ではないと思う。

それに、もう少し聴きこんでみたら、何かと新しい発見があるかもしれない。

 

 


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