(東アジアのピアニズム) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

先日、ピアニスト鯛中卓也による、古今東西におけるショパンの演奏スタイルについての講演会を聞いた(そのときの記事はこちら)。

ポーランド、ロシア、イタリア、フランスなど、ヨーロッパの各国におけるショパンの演奏スタイルについての講演を聞いた後、私は「アメリカや東アジアのショパン演奏について」と「彼自身のショパン演奏について」質問をした。

そのときのお答えについては上記記事をご参照いただきたいが、私はこうしたことに大きな興味がある。

今回は、これらの事項について私見を述べてみたい。

 

 

クラシック音楽は、20世紀後半から急速にグローバル化されていった。

中でも、ピアノという楽器はその最右翼なのではないだろうか。

特に東アジアではピアノが急速に普及し、演奏者の層も厚くなっていった。

「ピアノのオリンピック」ともいえるショパンコンクールでは、20世紀後半からすでに6位までの入賞者に1人か2人の東アジア人が入っていたが、2000年以降はその割合が増していった。

2000年には入賞者6人中3人、2005年には入賞者6人中5人が東アジア人となり、2010年には6人中0人に減るも、2015年には6人中4人が東アジア人(もしくは東アジア系北米人)となっており、コンスタントに過半数を占めるようになってきている。

他のコンクールでも、東アジア人ピアニストの活躍は目覚ましいものがある。

数十年後には、コンテスタントだけでなく審査員も大半が東アジア人、という時代がやってくるかもしれない(審査員には過去の上位入賞者が選ばれることが多いため)。

 

 

実際、私が好きなピアニストも、若い世代では東アジア系のピアニストが多い。

ただし、それも曲による。

モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスといった独墺系の作曲家や、フランク、ドビュッシー、ラヴェルといったフランス=ベルギー系の作曲家―つまり西欧の作曲家の曲では、ヨーロッパのピアニストのほうを好むことが多い。

しかし、ポーランドのショパン、ハンガリーのリスト、ロシアのスクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフといった東欧の作曲家の曲では、東アジアのピアニストたちはヨーロッパ人に勝るとも劣らない演奏を聴かせてくれる。

音楽の適性には、「東西」の要素がある―私にはそんなふうに思われるのである。

もちろん、私の好みだけの問題かもしれないのだけれど。

 

 

それに加え、私は、東アジアの中でも国ごとに異なるピアニズムがある、と考えている。

それは、上記の鯛中卓也の講演会のように、指使いや関節の使い方といった実践的なことでもなければ、専門的な文献的考察に基づくものでもなく、単に音楽を聴いての個人的な印象にのみ依拠するものである。

なので、軽く読み飛ばしていただけるとありがたい。

 

 

まず、韓国のピアニズム。

韓国のピアニストで比較的名の知れた人を思いつくままに列挙してみると、チョ・ソンジンを筆頭に、

 

イム・ドンミン、イム・ドンヒョク、ジョイス・ヤン、ソン・ヨルム、ノ・イェジン、アン・スジョン、キム・ソヌク、キム・ダソル、ソヌ・イェゴン、イム・ギウク、キム・ユンジ、パク・ジョンへ、キム・ヒョンジュン、キム・ホンギ、ソン・ジョンボム、ハン・チホ、キム・スヨン、ムン・ジヨン、パク・ジンヒョン、キム・カンテ、パク・ジェホン、イ・ヒョク

 

あたりになるだろうか。

もちろん彼らの演奏は一人一人異なるけれど、大まかな共通点はおそらくあって、それは高度のテクニックに裏打ちされた、クールでスマートな演奏様式と、その裏に秘められた情熱である。

彼らは、技巧的な曲をいとも簡単そうにさらりと弾いてみせるのだが、かといって現代音楽風の冷やかさがあるかというとそんなことはなく、根底にあるのはむしろ熱いロマンティシズムなのである。

そんな彼らの演奏は、まるで韓流スターのようにクールでかっこいい。

 

 

次に、中国のピアニズム。

中国のピアニストで比較的名の知れた人を思いつくままに列挙してみると、ユンディ・リを筆頭に、

 

サ・チェン、ラン・ラン、リウ・ユンティエン、ユジャ・ワン、フアン・ルオユー、クレア・フアンチ*、レイチェル・チャン、リ・スーチェン、コン・チー、ケイト・リウ*、ウ・ユーチョン、ジョージ・リ*、スン・ユートン、ティファニー・プーン、ハオ・イレイ、ユアンファン・ヤン*、ダニエル・シュー*、シャオユー・リウ*、エリック・ルー*、イーケ・トニー・ヤン*

 

あたりになるだろうか(*は中国系の欧米国籍のピアニスト)。

彼らの演奏の特徴については、音楽評論家の吉田秀和がユンディ・リの演奏を評した文章において端的に表されているため、ここに引用したい。

 

“私の中国の音楽家についての知識はごくごく僅かなものだから、あんまり当てにはならないのだが、おかしなことに、この人のピアノは実に「優しい風情」をもっているのである。これまた私の貧弱な中国の演劇(京劇)の舞台でみた経験からいうと、京劇の俳優たちが踊るにせよ何にせよ、ある仕草をする時、要所要所のきまりで、パッと動きを止めて、ある仕草をする。「シナをつくる」といってもいいのかもしれないが、一呼吸休んで、顔や身体全体の動きを通じて、ある優しい、柔らかな表情をつくるのである。その時の優しさ、私はそれを「婉然」とか、「婉麗」とか呼びたいような気がするのだが。その仕草を連想さすものが、このリさんの演奏の中にあるのである。あるフレーズ、ある楽段が終わり、つぎのそれが始まる直前、ごくごく短い瞬間に、音楽からタオヤカでアデヤカな、柔らかくて、優しい気配が放射されてくるのである。”

 

(吉田秀和 著 「之を楽しむ者に如かず」 収録 「キーシンのシューマン、ユンディ・リのリスト」より引用)

 

私も、ユンディ・リはもちろんのこと、中国系ピアニストたちの演奏全般から、このような優美さを感じる。

 

 

韓国のシャープなピアニズムと、中国の優美なピアニズム。

すごく単純化して言うと、前者はリスト向き、後者はショパン向き、ということになるかもしれない。

では、日本はどうか。

日本のピアニズムは、あまりに多彩で一口ではとても言い表せないように、私には思われる。

ショパン向きの人、リスト向きの人、ベートーヴェン向きの人、ドビュッシー向きの人…色々なタイプのピアニストがいて、一つの特徴で言い表しにくい。

むしろ、この多彩さこそが、彼らの特徴ではないだろうか。

彼らの留学先を見てみると、例えばバックハウス的な要素を持つ松本和将やケンプ的な要素を持つ石井楓子はドイツへ、グルダ的な要素を持つ佐藤卓史はオーストリアへ、ルービンシュタイン的な要素を持つ山本貴志やパデレフスキ的な要素を持つ鯛中卓也はポーランドへ、ホロヴィッツ的な要素を持つ小林愛実はアメリカへ、ベロフ的な要素を持つ深見まどかはフランスへ、とみんな自分の特質にぴったり合った国に留学しているような気がする(これらの「要素」というのは具体的な奏法に基づくものではなく、彼らの演奏から私が勝手に連想するイメージでしかないのだが)。

これらの国に留学したからこそこういう要素を持つようになった、という面もあるだろうし、もともとそうした特性が彼らにはあって、それをさらに活かせる国に引き寄せられるかのように留学していく、という面もあるのだろう。

各人が他国のある部分に心からの親和性を感じて、それを完全に取り入れ、自分のものとする。

島国である日本が太古の昔から他国より様々なものを取り入れてきた「模倣」の精神こそ、日本のピアニズムといえるのかもしれない。

 

 

と、東アジアのピアニズムについて勝手な私見を述べてきたが、では北米のピアニズムはどうか。

これまた勝手な印象なのだが、北米らしいピアニズム、というのは私にはあまりピンと来ない。

上記の中国人ピアニストと、中国系の北米人ピアニストとの間で、ピアニズムにあまり大きな差異を感じない(後者のほうが技巧的な洗練度はやや高いかもしれないが)。

また、ルイ・ロルティやシャルル・リシャール=アムランといったフランス系カナダ人の演奏からは、北米というよりもやはりフランスの香りがするし、同じカナダ人ピアニストのグレン・グールドとはだいぶ趣が異なる。

そう考えると、少なくともピアノにおいては(あるいはもしかしたら音楽全般においても)、音楽性の継承の上で大きなウェイトを占めるのは、「土地」よりも「血」なのかもしれない。

民族というのは、何とも不思議なものである。

 

 


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