(行ってみたい演奏会 その30 フルトヴェングラーのR.シュトラウス「サロメ」) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

またしばらく間が空いてしまったが、「もしもタイムマシンがあったなら行ってみたい演奏会」シリーズの続きを書きたい。

これまで、フルトヴェングラーの指揮による演奏会を取り上げてきて、ベートーヴェン、ヴァーグナー、ブラームス、ブルックナー、マーラーまで来た。

というわけで、次はR.シュトラウスに移りたい。

 

 

フルトヴェングラーの振るR.シュトラウスは、どの曲も大変素晴らしい(特に「死と変容」や「ティル」は絶品)。

ただ、フルトヴェングラーの演奏がR.シュトラウスの音楽にとって理想的な解釈かといわれると、少し違うのではないだろうか。

フルトヴェングラーの演奏は、R.シュトラウスにしてはあまりに英雄的すぎるように思われるときもないではない。

マーラーと同じく、R.シュトラウスの音楽には、後期ロマン派特有の神経質なまでに緻密で複雑な書法と、極端なまでに肥大した規模とがみられる。

また、これまたマーラー同様、音楽全体がどこかアイロニカルで、斜に構えたような、分裂的とでも言いたいような性質を持っている。

マーラーやR.シュトラウスのこうした近代性、いわば「世紀末的」な要素は、フルトヴェングラーにはおそらくよく理解できなかったのではないだろうか。

彼の振るR.シュトラウスは、ときにあまりにも素朴に「偉大なる単純さ」を湛えすぎているような気がする。

とはいっても、いざフルトヴェングラーの振るR.シュトラウスを聴くとやはり感動的で、これ以上の名演があるのかといわれると困ってしまうのだが。

 

 

R.シュトラウスの曲のうち、管弦楽曲についてはこれまでにも時折取り上げたので(こちらなど)、ここではオペラに特化することにする。

今回はまず、「サロメ」を取り上げたい。

フルトヴェングラーがその生涯で行った「サロメ」の公演は、以下の通りである。

 

①1917年1月14日、2月27日、3月14日 マンハイム歌劇場での公演

 

つまり、まだ30歳かそこらで1シーズン3公演振っただけで、その後はこの曲を二度と取り上げなかったようである。

聖書を題材にしながらもきわめて強烈な非道徳性を持つこの物語と、それにぴったり合った濃厚で複雑怪奇な音楽。

ロマン主義のなれの果て、とでも言いたいようなこのオペラは、偉大なるベートーヴェン、ヴァーグナー、ブルックナー、ブラームスを敬愛していたフルトヴェングラーにしてみれば、ゲテモノ以外の何物でもなかったのかもしれない。

それでも、このときのマンハイムでの「サロメ」、もしかしたら彼ならではの壮絶な演奏になっていたかもしれず、大変気になる。

上記公演のうちどれかを聴きに行けるならば、どれでも良いが一応最初の

 

1917年1月14日、マンハイム歌劇場

指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

管弦楽:マンハイム歌劇場管弦楽団

プログラム

Strauss: Salomé
(Walther Günther-Braun, Johanna Lippe, Else Tuschkau, Hans Bahling, Max Lipmann)

 

にしておく。

 

 

ただしタイムマシンはまだないし、またこの演奏会のライヴ録音も残されておらず、代わりに別の機会に収録されたものでもいいので何か聴きたいところだが、「サロメ」については残念ながらそれすらも残されていない。

ワルターやクレンペラーのように、「7つのヴェールの踊り」だけでも録音してくれていたら嬉しかったのだが。

 

 


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