大阪フィルハーモニー交響楽団
第516回定期演奏会
【日時】
2018年3月10日(土) 開演 15:00 (開場 14:00)
【会場】
フェスティバルホール (大阪)
【演奏】
指揮:井上道義
ピアノ:アレクサンデル・ガジェヴ *
合唱:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
(コンサートマスター:田野倉雅秋)
【プログラム】
バーバー:ピアノ協奏曲 作品38 *
ショスタコーヴィチ:交響曲第2番 ロ長調 作品14 「十月革命に捧げる」
ショスタコーヴィチ:交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」
※アンコール(ソリスト) *
ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 op.45
大フィルの定期演奏会を聴きに行った。
指揮は井上道義。
そして今回注目すべきことに、ピアニストのアレクサンデル・ガジェヴが出演した。
彼は、2015年の浜コン(浜松国際ピアノコンクール)の優勝者。
ネット配信を聴いたところでは、彼の予選の演奏の全てに感心したわけではなかったけれど、ファイナルで彼が弾いたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は大変鮮やかだった。
今回、彼の実演を聴くのは初めてであり、期待して聴きに行った。
彼が今回弾いたのは、バーバーのピアノ協奏曲。
この曲で私の好きな録音は
●ブラウニング(Pf) セル指揮クリーヴランド管 1964年セッション盤(Apple Music/CD)
●ラスキン(Pf) エプステイン指揮MIT響 1976年セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ジョセルソン(Pf) シェンク指揮ロンドン響 1985年頃セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
初演者ブラウニングをはじめとして皆大変うまく、特にテッド・ジョセルソン(ヨセルソンとも表記する)は音がきれい。
プロコフィエフと同様、「乾いたロマン」とも言うべき味わいをもつ新ロマン主義のこの協奏曲は、ガジェヴに合うだろうと思っていたが、聴いてみるとやはりそうで、上記3盤に匹敵する名演だった。
プロコフィエフのときのようにスリリングに攻めていくというよりは、やや落ち着いた歩みだったが、そのぶん余裕のある演奏で、技巧的にも大変安定している。
ジョセルソンよりもやや乾燥質の音色で、それでいて独特な「色気」が感じられ、第2楽章ではメロディの歌わせ方の味においてフルートやオーボエにも優っていた。
期待通りの演奏。
ただ、贅沢を言うならば、浜コンでのプロコフィエフのようにミスタッチも辞さない攻めの姿勢で、今回のバーバーでも上記3盤を凌駕するほどのエキサイティングな演奏を聴いてみたかった(プロコフィエフでは高関健の指揮だからできたことなのかもしれないが)。
いつかそのような演奏で、バーバーの協奏曲をもう一度聴かせてくれることを期待したい。
後半は、ショスタコーヴィチの交響曲第2、3番。
演奏の前に、井上道義によるスピーチがあった。
いつも、理路整然というよりは自由で軽妙なスピーチで私たちを笑わせてくれる彼だが、今回ももちろん「ミッキー節」全開ではあったものの、普段とは比較にならないほど鑑賞の援けになる効果的なものだった。
というのも、ショスタコーヴィチの交響曲第2、3番には合唱がついているのだが、その歌詞が大変政治的で、レーニンや共産主義の賛美に徹しているからである。
今回、日本語翻訳による字幕もついていたため、何も知らずにこの歌詞を見るとさすがに驚いてしまうだろう。
そこで今回、井上道義は、交響曲第2、3番を書いたときのショスタコーヴィチがまだ21、23歳の若者だったこと、今でいう羽生結弦と同じくらいの歳で、向かうところ敵なしの元気いっぱいな新進気鋭の作曲家だったこと、そして当時はまだロシア革命後間もなく、革命が新しい時代を切り開くと信じられ希望に満ちていたことなどを説明した。
そのおかげで、私たち聴き手はレーニン礼賛の歌詞にドン引きしてしまうことなく、約100年前の「ソ連音楽界の王子」ショスタコーヴィチの若きエネルギーに思いを馳せることができたのだった。
そのショスタコーヴィチの交響曲第2、3番で、私の好きな録音は
●交響曲第2番 ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル 2011年6月14日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●交響曲第3番 ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル 2010年6月22~23日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
井上道義の演奏は、音楽的解像度の高いV.ペトレンコ盤とは違うし、あるいは熱気あふれるコンドラシン盤などとも異なっている。
前回のショスタコーヴィチ交響曲第11、12番の演奏会のときと同様(そのときの記事はこちら)、彼のあの独特な身振りほどには奇を衒わない、素直なアプローチである。
ただ、素朴ながらどこかツヤのあるところが、真面目一辺倒の指揮者とは違った彼ならではの持ち味となっている。
曲そのものの魅力をよく味わうことのできる演奏だった。
それに、やっぱりショスタコーヴィチの大編成の交響曲は、大きなコンサートホールでの迫力ある生演奏が合っている(これらの曲の良さはCDでは絶対にわからない、と井上道義自身もスピーチで言っていた)。
ところで、21、23歳のショスタコーヴィチは、井上道義の言うように、本当にロシア革命を希望的に捉えていたのだろうか?
交響曲第2番の歌詞について、ショスタコーヴィチは「うんざりしている」と言っていたとの証言もあるという。
穿った見方をすると、この歌詞は革命10周年記念のコンクールために「味付け」として添えられたと考えられなくもない(なお、交響曲第2番はこのコンクールで第1位を受賞したとのこと)。
生涯にわたってソ連共産党当局との関係に悩まされたショスタコーヴィチの葛藤は、もしかしたら20歳そこそこの時点ですでに始まっていたのかもしれない。
ただ、彼の音楽の全てが彼のやりたい通りというわけでなく、どこかに妥協が存在するとしても、どこまでが彼の「本音」で、どこからが彼の「建て前」なのか、聴いていて判断が難しい。
今回の交響曲第2、3番にしても、驚くほど前衛的な書法から、ロマン派風の旧式の書法まで、また以後の彼の作品にあまりみられない特徴から、以後の作品にも頻繁に聴かれる特徴まで(例えば「タッタカタッタカ」といった軍楽調のリズムなど)、あらゆる要素が複雑に混在し絡み合っている。
これらの要素は彼独自の個性によってセンスよくまとめられており、確かな天賦の才が感じられるけれど、この「ごった煮」こそが彼の心底やりたかったことなのか、それともある程度妥協の産物なのか、私にはよくわからない。
彼にはもともと根底にロシア風のロマン的気質があったために、それを捨てることをせず、様々な要素をあえて併存させた、ということならば良いのだが。
そして事を複雑にしているのが、彼の場合、「本音」と「建て前」との間の葛藤による苦悩そのものが、生涯を通じて彼自身の音楽性にある種の深みをもたらし、ネガティブだけでなくポジティブな影響をも与えた可能性がある、ということである。
指揮者フルトヴェングラーの個性はナチス台頭以前からすでに確立されていて、ナチスや戦争が彼の指揮に音楽的な面で影響したところは少ないと(彼の録音を聴いて)私は確信しているけれど、ショスタコーヴィチの場合はどうなのだろうか。
煮ても焼いても食えない「妥協」が、長い年月をかけてどうにか消化吸収され、彼の血となり肉となっていった、ということもありうるのだろうか。
彼の作品を聴いているとこうした考えが頭をよぎっていたたまれなくなり、素直に陶酔できないことが私にはときどきある。
ショスタコーヴィチ、私には未だに謎めいた人物である。
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