大阪フィルハーモニー交響楽団 第505回定期演奏会
【日時】
2017年2月17日(金) 19:00 開演(18:00 開場)
【会場】
フェスティバルホール (大阪)
【出演】
指揮:井上道義
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
(コンサートマスター:崔文洙)
【プログラム】
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番 ト短調 「1905年」作品103
ショスタコーヴィチ:交響曲第12番 ニ短調 「1917年」作品112
大フィルの演奏する、ショスタコーヴィチの交響曲第11、12番。
昨年12月に、同じくショスタコーヴィチの交響曲第10番の大変な名演を聴かせてくれた大フィルだけに(そのときの記事はこちら)、今回も期待が高まった。
純器楽的な交響曲として均整の取れた第5番や第10番と比べ、第11、12番はショスタコーヴィチ特有の「情念」のようなものがかなり濃くなっているような気がする。
これら2曲は、表向きは「ロシア第一革命」や「ロシア革命」の讃歌であり、体制迎合的な曲とみなされることもあるが、聴いているとそれだけでは到底説明の付かないような、ショスタコーヴィチの複雑な思いが凝縮されているように思われる。
第12番の終楽章など、ロシア革命の「勝利」で終わっており、当局の要請に対する妥協ではないか、とよく言われるけれども、ここの音楽を聴いてみると、よく「強制された歓喜」と表現される第5番の終楽章と比べてみても、さらに渋面の強くなった苦い「勝利」がここにはあり、妥協妥協と簡単には割り切れない複雑な心境が感じられる。
そしてその情念(あるいは、「悲しみ」だろうか)は、第13番「バビ・ヤール」や第14番「死者の歌」へと進むにつれて、声楽が付与され、もはや体制迎合的な仮面すら剥ぎ取られた直接的な歌詞とともに、さらなる深まりをみせていく。
なお、私は第11、12番の演奏をこれまでたくさん聴いてきたわけではないが、その中でも好きな録音は、第11番ではビシュコフ指揮ケルンWDR響盤、第12番ではヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル盤、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ響盤、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル盤あたりである。
ビシュコフの第11番は、「熱狂」と「精緻」とが高度に融合した、大変な名演であり、これを超える演奏はなかなかないのではないだろうか。
また、第12番で挙げた3つは、いずれも素晴らしい迫力であり、聴いていて急き立てられるような思いがする。
ペトレンコは激しくもすっきりしてスタイリッシュ、ヤルヴィは分厚さがあり、ムラヴィンスキーはただただ壮絶、といった三者三様の特徴があるけれども、迫力の面ではいずれ劣らぬ素晴らしさである。
さて、今回の井上道義&大フィルによる演奏。
これは、大変な名演であったと思う。
井上道義は、今回のプログラムにメッセージを寄せており、そこで大フィルの指揮者としての3つの目標を挙げている。
1. 大阪フィルを朝比奈ブルックナーのトラウマから解放し、他の三団体と比して、大阪という人懐こい個性ある街にふさわしい大オーケストラとして、明るいラテン系音楽を多く演奏していくこと
2. TV放映やCD録音を出来るだけ行うこと
3. 大阪圏にあるホールの個性に似合った作品をそれぞれ演奏すること
まず、2番目の目標については、今回も録音用のマイクが入っていたし、積極的に行っていることが窺われる。
次に、3番目の目標について、彼は「フェスティバルホールにはショスタコが似合います」とも併記している。
それを、今回の演奏会で大いに実感できた。
フェスティバルホールという、コンサートホールの中でも大きめの会場では、オーケストラの演奏であっても、どうしても迫力が不足しがちという印象をしばしば受けるということは、これまでの記事でも何度か書いてきた(ウィーン・フィルの演奏会は例外だが)。
しかし、今回のショスタコーヴィチは違った。
16型、三管編成という巨大な編成で演奏されるショスタコーヴィチは、「音の洪水」という言葉がよく似あい、舞台から遠い2階の安い席で聴いていても、CDとは格の違う音の大迫力に圧倒された。
例えば、第11番の第2楽章、これは「血の日曜日」と呼ばれる、皇帝の命により軍隊がデモ中の民衆を射撃した事件を描写しているといわれており、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」の中の「オデッサの階段」のシーンで使われたということでも有名のようである(ただし、オリジナルの映画では別の音楽が使われており、ショスタコーヴィチのこの音楽が用いられたのは後年の復刻版においてである)。
この楽章の後半では、皇帝軍による一斉射撃と民衆の死、悲嘆が、音楽によってかなりリアルに描写されており、聴いていて恐ろしくなるほどである。
この箇所における、今回の井上道義/大フィルの演奏の攻め寄せるような大迫力は、CDでは全く体験できない類のものであった。
また、第11番の終楽章のコーダ(結尾部)、ここでも全楽器がこれでもかというほどの圧倒的なフォルテ(強音)を鳴らし、そのあまりの音の大きさに、この箇所において初めて登場するチューブラーベルの音が目立たなくなってしまうほどであった(ここのチューブラーベルによる「警鐘」は大事な部分であり、タムタムくらい大きな音が出たならばより良かったのだが、きっと現実的には難しいのだろう)。
第12番の第1楽章や終楽章でも、同様に圧倒的な音響が聴かれた。
ホールに合った作品の演奏というのは、大事なこととは常々感じていたが、今回改めてそのことを強く実感した次第である。
そして、井上道義の挙げた、1番目の目標について。
彼の演奏には、独特の特徴があると思う。
彼が指揮する際の身振りは、ダンスを踊っている風であったり、楽器を演奏する真似をしたり、遊び心に溢れていて、観ていて思わずにやっとするほど特徴的である。
にもかかわらず、彼の演奏そのものは、いつも比較的ストレートなのである。
これは、先日の彼のブルックナー交響曲第5番を聴いたときにも感じたことだった(そのときの記事はこちら)。
ときに「あれっ」と思うような濃い表現をすることがあるが、全体的には彼の指揮の身振りと対照的に、ストレートで端正な音楽づくりだと思う。
端正といっても、例えば上述のビシュコフの第11番の録音に聴かれるような、各パートをクリアに聴かせながら、よくコントロールされた響きやキレのあるリズムで音楽を盛り上げていくような、「洗練された端正な熱狂」とは、違う。
また、これまた上述の、昨年12月のフルシャ/大フィルによる第10番の演奏会で聴かれたような、各パートをあえて際立たせるようなことはしないけれども、各楽器を天性のバランス感覚できわめて自然に響かせ、とめどなく拡散しがちな音楽を比類ない完成度でまとめ上げるような、「高度に自然な端正さ」とも、また違う。
井上道義の場合は、もっと愚直なストレートさなのである。
第11番の第2楽章などで感じたことだが、リズムなど、キレッキレというよりはむしろdullなこともあるくらいで、不器用な感じさえすることがある。
そのぶん、小手先の技というか、器用貧乏のようなところがあまりなく、素材をそのまま呈示してくれるので、聴き手は音楽を素直に受け取ることができる。
この愚直さは、「日本人的」と言ったら語弊があるだろうか。
ただ、面白いことに、彼にはそれだけにとどまらない要素もあるように思われる。
例えば、第11番の第3楽章や、第12番の第2楽章など、ヴィオラやヴァイオリンによる魅力的なメロディが出てくる際には、彼特有の「艶」のようなものが聴かれるのである(ブルックナーの第5番でも同様であった)。
抑揚をつけてしっかり歌わせるけれども、やりすぎにはならない、絶妙な「歌」、そしてその際に彼が弦楽器から引き出してくる美しい音色。
こういった、カンタービレ(歌うように)における彼のセンスは、日本人離れしているような印象を受ける。
また、愚直でありながらも、鈍重にはならずに全体をまとめ上げる、絶妙なスマートさも、彼は持ち合わせている。
こういった、「日本人的」な愚直さと、「日本人的」でないセンスとの、独特な共存が、彼の持ち味につながっているように思われるのは、私の独断だろうか。
彼が指摘するように、今の大フィルが「朝比奈ブルックナーのトラウマ」にとらわれているかどうかは別として、彼が目標に掲げた「明るいラテン系音楽」という表現が、もし私の書いたような彼特有のセンスのことを指しているならば、彼は大フィルにおいてそれを実現することに成功している、と私は思う。
なお、このような熱演を繰り広げた大フィルのメンバーにも、指揮者同様、拍手を送りたい。
例えばクラリネットの金井信之は第12番だけ出演、オーボエの浅川和宏も第12番だけ出演というように、曲によって奏者を変えており、色々なメンバーの演奏を聴けるというのも、聴き手としては嬉しいことである。
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