ロイヤルチェンバーオーケストラ 大阪公演 西本智実 ベートーヴェン 交響曲第9番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

~浪切ホール芸術ディレクター就任記念事業~
西本智実 指揮 ロイヤルチェンバーオーケストラ

ベート-ヴェン交響曲第九演奏会 浪切第九合唱団

 

【日時】
2018年2月3日(土) 開演 15:00 (開場 14:15)

 

【会場】
岸和田市立浪切ホール 大ホール (大阪)

 

【演奏】

指揮:西本智実
ソプラノ:坂口裕子
アルト:野上貴子
テノール:山本康寛
バス:田中由也
管弦楽:ロイヤルチェンバーオーケストラ
合唱:浪切第九合唱団

 

【プログラム】

山下康介:「DANJIRI」

ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 「合唱付き」 op.125

 

 

 

 

 

西本智実&ロイヤルチェンバーオーケストラの「第九」を聴きに行った。

「第九」というと、いつかも書いたけれど(そのときの記事はこちら)、フルトヴェングラーとカラヤンの演奏がものすごくて、私にとってはそれぞれ20世紀前半と20世紀後半の「第九」演奏の専売特許のような存在になっている。

フルトヴェングラーとカラヤンの「第九」のせいで、私は現代の「第九」演奏をテレビで観てもCDで聴いても、生演奏でも満足できなくなってしまった。

そんな中、初めて大いに感動したのが、一昨年の西本智実の「第九」である(そのときの記事はこちら)。

この演奏は、決して大時代的というわけではなく、現代的なスマートさをちゃんと持ち合わせていたのだけれど、それにもかかわらず、フルトヴェングラーやカラヤンに共通するような、交響曲という形式を借りた一つの壮大な「ドラマ」を感じさせてくれた。

それも、やりすぎてくどくなってしまうことのない、一定の「厳しさ」を保ったうえで。

私は、21世紀の「第九」演奏は西本智実の専売特許である、とまでは言わない。

ラトルやガーディナーの演奏のほうが、現代の様式により即しているだろう。

しかし、私にとって、少なくとも「第九」に関しては、西本智実の演奏が大変しっくりくるのである。

 

 

上記公演の記事では、西本智実の「第九」のDVDが手に入らないと書いたけれど、その後入手することができた。

2013年、ローマのサン・パオロ大聖堂でのライヴDVDである(こちら)。

これは、大聖堂での演奏ということで、残響が大変長い。

良く言えば神々しいのだが、悪く言うと「風呂場サウンド」ということになる。

それに、音質も最善とはいえず、例えば第3楽章など、このDVDではべちゃっと広がるような音になっているけれど、実演を聴いたときはもっとしゅっと引き締まった美しい音だった。

第3楽章冒頭で主要主題が呈示される途中で、ふっと音量をさらに落として最弱音にするときの精妙さだとか、あるいは主要主題が3回目に登場する直前、弦のピッチカートの上で管楽アンサンブルが聴かれる部分での、たとえようもない美しさ―こういったものも、この録音からはあまり伝わってこない。

こういうものを聴くと、きっとあの有名なフルトヴェングラーの「バイロイトの第九」の第3楽章も、実演で聴いたらもっと全然次元の違う美しさだったんだろうな、と思う。

とまぁ色々文句も書いたけれど、このDVD、上記公演の感動を十分によみがえらせてくれる愛聴盤である。

 

 

そんな西本智実の「第九」が、今回また生で聴けるということで、楽しみにしていた。

しかし、結果的には、前回ほどの感動は得られなかった。

なぜなのか。

今回のロイヤルチェンバーオーケストラが、前回の大阪交響楽団に劣るとか、そういったことではないと思う。

おそらく、会場のせいだろう。

この「浪切ホール」というコンサートホールは、上記サン・パオロ大聖堂と対照的に、残響がおそろしく短い。

各楽器の響きがぶつ切りになって、うまくブレンドされないのである。

それに、音が客席まで届きにくい気がする。

今回そんなに後ろのほうの席ではなかったのに、音が遠いような印象を受けた。

おそらくそのせいだと思うのだが、今回は生演奏であるにもかかわらず、第1、2楽章での感動的なはずの「ドラマ」も、第3楽章でのあんなにも美しかった弦の最弱音や管のアンサンブルも、あまりよく伝わってこなかった。

 

 

とはいえ、西本智実の解釈そのものが変わったわけではなく、テンポの採り方やクライマックスへの持っていき方など、相変わらず素晴らしかった。

それに、終楽章ともなると、ソリストや合唱が加わるためか(合唱はかなりの大人数だった)、ようやく音が届いてくるようになった。

オーケストラによるフガート部分の嵐のような激しさと、その後に続く「歓喜の歌」の大合唱の迫力。

合唱による二重フーガの壮大さ・雄大さと、それが終わった後の「Brüder!」(兄弟よ)につけるアクセントの力強さ。

そして、最後のコーダ部分の、どしっとした重厚さを失わないながらもいつの間にか煽られる、熱狂の渦。

やっぱり、西本智実の音楽には、形こそ違えど、フルトヴェングラーやカラヤンのそれと同じく、聴き手を熱狂させる(ひょっとすると奏者をも)何らかのパワーがある。

これは、経験や努力により習得するものなのか、あるいは生来備わったセンスやカリスマ性のようなものなのだろうか?

私には、いつも不思議なのである。

 

 


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