大阪交響楽団 西宮公演 西本智実 ベートーヴェン 交響曲第9番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

西本智実の「第九」

 

【日時】

2016年9月24日(土)  開演14:00  (開場13:15)

 

【会場】

兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール

 

【出演】

指揮:西本智実

ソプラノ:熊本佳永

アルト:野上貴子

テノール:二塚直紀

バリトン:桝 貴志

管弦楽:大阪交響楽団

合唱:イルミナートヴァチカン合唱団

 

【プログラム】

モーツァルト:戴冠式ミサ ハ長調
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調

 

 

 

 

 

西本智実の、第九。

私は常々、往年の巨匠、フルトヴェングラーやカラヤンのスタイルを、現在最も大きく継承しているのは、西本智実なのではないかと思っている。

似ているとまではいえないが、たっぷりとした和音の鳴らし方、ドラマティックな展開、それでいてやりすぎることなく絶対音楽的な厳しさを保っている点、などにおいて共通点があると思う。

そんな彼女が、ベートーヴェンを得意とするであろうことは容易に想像できた。

現に、ベートーヴェンの交響曲第7番の演奏はとても良かった。

CDでも良かったし、2016年3月13日のロイヤルチェンバーオーケストラを指揮したときの演奏会も素晴らしかった。

私は、往年の巨匠たちの録音を聴きすぎたためか、ベートーヴェンの交響曲の生演奏で感銘を受けたことがほとんどないのだが、このときの第7番は本当に素晴らしく、生で聴いたベートーヴェンの交響曲の中ではこれまでで最も感動した演奏会だったと思う。

そして、彼女は交響曲第9番のDVDを出しており、一時期販売していたのだが、いざ買おうと思うといつの間にか廃盤になっていた。

他にも、CDも少なくとも2種類出ていたようなのだが、これらも残念ながら入手できなかった。

名演であることが予想されるだけに、これまで悔しい思いでいたのである。

それが今回、彼女の「第九」を実演で聴く機会に恵まれた。

またとない機会であり、私ははやる気持ちを抑えつつ会場に向かった。

しかし、オーケストラはこれまで聴き慣れた大阪交響楽団である。

西本智実がこのいつものオーケストラに何か特別なものを付け加えることは、はたしてできるのだろうか…?

 

果たしてその演奏は、否応なしに高まる私の期待をはるかに上回る名演であった。

彼女の解釈は、往年の巨匠フルトヴェングラーやカラヤンとは異なり(もちろんこの二人の間の違いもかなり大きいのだが)、よりテンポは速くすっきりしており、編成も小さめで(おそらく12型)、作曲当時の様式を大切にする現代の風潮に彼女も共感していることが分かる(余談だが、先日聴いた小林研一郎のベートーヴェン交響曲第5番では、大編成であり、解釈もやや大時代的だった)。

おそらく、楽譜も旧来のブライトコプフ版ではなく、ベーレンライター新校訂版を使用していると思われる(第1楽章の第2主題の音の違いで分かる)。

「できるだけ主観を交えず客観的に演奏したい、作曲者の意図を最大限に汲んで再現したい」といった趣旨の彼女自身の言葉に違わぬ姿勢である。

しかしながら、そういったすっきりとした現代的な解釈でありながらも、彼女の演奏は現代の数多の演奏とは全く違った個性を持っている。

まず、音が大変充実している。力強く、温かみがあり、適度に重厚なのだ。

スタッカート(歯切れよく奏する部分)を例にとっても、音の切り方は鋭すぎず、かといってだらっと歯切れ悪くもなく、丁度良い切り方であり、ベートーヴェンの迫力を出すにはとても適切だと思う。

そして次に、彼女の演奏はとてもドラマティックなのだ。

大きな起伏に富んでおり、かつ推進力がある。

しかもそれが、無闇にデフォルメされることなく、テンポやデュナーミクは厳しい高さをもってコントロールされている。

これぞベートーヴェン!と言いたくなる演奏なのである。

 

ベートーヴェンの交響曲第9番、第1楽章は、かすかなトレモロ(音の細かな刻み)によって霧のように幻想的に開始され、これがどんどんクレッシェンド(大きな音で)されていって、最強音に達したところで堂々たる主要主題が呈示される。

この冒頭における西本智実の演奏を聴いただけで、この長大な曲全体の演奏が充実しているであろうことが容易に想像される。

ここで彼女は、往年の大指揮者フルトヴェングラーのように、冒頭のトレモロから曖昧模糊とした響きを生み出したり、その後の主要主題の部分で大伽藍を思わせるような雄大なテンポを取ったりは、さすがにしない。

そのようなことをもし現代において行えば、大時代的な演奏になってしまうだろう。

冒頭のトレモロはきちんと明瞭に刻まれ、またここの一連のテンポもきちんと「Allegro」(速く)になっている。

それでは、普通の演奏なのかというと、そうではない。

現代に即した明瞭な表現の範囲内で、彼女は最大限に大きなドラマを作り上げる。

このように充実した表現を、現代の他のどの指揮者がなしえるだろうか。

その後も音楽はためらうことなくどんどん進んでいき、無闇に立ち止まらない。

それが、とてもベートーヴェンらしい。

展開部の、第2主題を展開する部分に入る箇所で、大きなリタルダンド(テンポを遅くすること)が聴かれるが、恣意的といえば恣意的といえるのは、ここくらいなものである(彼女の第7交響曲の演奏でも、似たような表現が聴ける箇所が存在する)。

そして、音楽が少しずつ高揚し、再現部に向かってなだれ込んでいく部分。

ここは、かのフルトヴェングラーは、意外にもイン・テンポ(速さを変えない)であっさり突入する。

ここに関して、そのライナーノートで宇野功芳が「ここは大きなリタルダンドを入れたいところだ!」というようなことを確か書いていたと記憶している。

さてどうだろうか、と私はずっと長らく思っていたが、この部分を西本智実は、極めてさりげなく自然なリタルダンドにしていた。

展開部から再現部にかけての表現として、これほどしっくりくる演奏を聴いたことがない、と私は思った。

そして、再現部に入ってからの数小節の間の迫力!

日本のオーケストラで、しかも小さめの編成なのに、これほどの音が鳴ろうとは。

 

第2楽章も、同様に重厚さと推進力とが素晴らしいバランスを保った演奏だった。

そして、第3楽章。

これはもう、夢をみているかのような演奏だった。

この楽章は、「Adadio molto e cantabile」の指示であり、「とてもゆっくりと」奏すべき楽章なのだが、ここで西本智実は、現代風の解釈でかなり速めのテンポを取る(まるで「Andante」のようである)。

しかし、この快速テンポでも、この楽章の繊細な情感を余すところなく表現していた。

本当に美しい第1主題。

そしてその主題が大きく高まっていくのだが、その直前にいったんひそやかな最弱音となる。

この最弱音の部分を、ここまで繊細に表現した演奏を、私は他に知らない。

CDだと、おそらくほとんど聴こえないだろう。

しかし、実演だとこんなに小さな音なのにとてもよく聴こえ、聴き手の心をひっそりと刺す。

その後もこの楽章ではメロディが連綿と歌い継がれ、変奏されていく。

そのいずれもが、本当に美しく奏されていた。

変奏により音符が細かくなっていくにつれ、情感もどんどん細やかになっていく。

この変奏曲、こんなに美しかっただろうか、とふと思ったくらい。

特に、弦によるピッチカートのさざ波の上で、クラリネットを中心とする管のアンサンブルが美しいハーモニーを奏でる部分、ここの美しさといったら!

本当に、夢見るように美しかった。

これまで、何種もの名演の録音を聴いてきたが、この部分がこれほど美しく奏された演奏は一つも思い出せない。

以前の演奏会でも感じたことだが(特にプロコフィエフの古典交響曲)、西本智実は管楽器の美しいハーモニーを作り出すということにかけても超一流だと思う。

 

そして、終楽章。

最初に、これまでの第1~3楽章の主題が回想される。

そして、苦悩の末、これらがきっぱりと否定され、かの「歓喜の歌」が低弦から聴こえてくる。

ここは、現代では、さらっと演奏するのが普通である。

しかし、西本智実は、フルトヴェングラーほどではないにしても、かなり長めの休止(フェルマータ)を取り、そして、かなりの弱音でゆったりと「歓喜の歌」を開始する。

ここは、彼女のもつ音楽のナラティヴ(物語性)の感覚が、端的に分かる箇所の一つだと私は思う。

遠く、遠く、遥か彼方からひっそりと歩みを始める「歓喜の歌」は、少しずつ近づいてきて、また徐々に力がみなぎっていく。

その途中、この「歓喜の歌」のメロディがヴィオラによって奏されるとき、その音色は実に美しく、温かさに溢れていた。

その後、この主題はヴァイオリンに受け継がれたのち、金管によって大きく呈示され、最高潮に盛り上がったところで、バリトン・ソロが歌い始める。

この一連の流れを、感動的な物語として演奏できるのは、フルトヴェングラーと西本智実くらいなものではないだろうか。

ここからは、4人のソリストたち、および合唱団が歌いだし、俄然華やかになる。

合唱団は、おそらく公募によるメンバーなのだろう、きわめて洗練された合唱とはいえなかったが、西本智実は「この曲に必要なのは洗練よりもパワー」とでもいわんばかりに、合唱団から力強い響きを引き出しており、圧倒された。

聴きどころの、ゆったりとした歩みで始まる行進曲(最近の主流は速いテンポだが)とそれに続くオーケストラによるフガートの部分、そしてもっと後に出てくる合唱も含めたフガート部分、これらも本当に充実した演奏だった。

そして、最後の最後、Prestissimoの部分では、フルトヴェングラーは一気呵成、阿修羅のようなテンポで攻め行くが、西本智実はそんなことはせず、もっと安定したテンポでこの長大な交響曲にしっかりとピリオドを打つ。

 

日本では、年末といえば第九演奏会であり、テレビでもよく放映されるため、私もこれまで何度も観てきた。

実演でも、聴いたことがある。

しかし、今回の演奏会は、そういった私の経験からくる予想を見事に覆した。

西本智実の第九、DVDやCDを入手するタイミングを失ったまま廃盤になってしまったのが、今更ながら悔やまれる。

もし次にリリースされれば、必ず買うだろう。

そして、音楽が氾濫しているこの現代にあって(「蛇口をひねるかのようにいとも簡単に音楽が聴ける」というようなことを言ったのはサイモン・ラトルだったか?)、このようなかけがえのない演奏を聴かせてくれる西本智実には、感謝あるのみである。