京都市交響楽団 第616回定期演奏会 アクセルロッド ベルリオーズ 幻想交響曲 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

京都市交響楽団 第616回定期演奏会

 

【日時】

2017年9月3日(日) 開演 14:30


【会場】

京都コンサートホール 大ホール


【演奏】

指揮:ジョン・アクセルロッド

管弦楽:京都市交響楽団

(コンサートマスター:泉原隆志)

 

【プログラム】
武満徹:死と再生~「黒い雨」より
R.シュトラウス:交響詩「死と変容」 op.24
ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14

 

 

 

 

 

京響の定期演奏会を聴きに行った。

プログラムは、武満徹と、R.シュトラウスと、ベルリオーズ。

一見何のつながりもなさそうなプログラムだが、武満徹の「死と再生」と、R.シュトラウスの「死と変容」は、「死」というテーマでつながっている。

そして、武満の「死と再生」のほうは、偶然かどうか、彼の死の年に弦楽合奏曲へと編曲されたようである。

映画音楽であり、映画の内容にリンクしているのだとは思うが、ここでは彼には珍しく、苦しさ、重々しさが充満している。

昨年、ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管の演奏会で、武満の弦楽合奏曲「ノスタルジア」を聴き、大変美しい演奏に感嘆したのだったが(そのときの記事はこちら)、あの曲にはもっとふわっとした、より明るい雰囲気があった。

それに比べると、今回の「死と再生」は、武満自身の死をも連想させるような、重苦しい曲となっている。

 

一方、R.シュトラウスの「死と変容」は、同じく「死」をテーマにしていても、印象は異なる。

彼が24~25歳頃という若いときに書かれたこの曲は、重苦しいというよりは、勢いに満ちている。

彼は85歳まで生きているが、死の2日前にこの「死と変容」を追憶したと言われている。

60年も前のことを、彼はどう感じていたのだろうか。

彼の死は第二次大戦後のことだが、その60年前、すなわち1889年というと、時まさにドイツ皇帝がヴィルヘルム2世へと変わったばかりの頃である。

きっと、何もかも全く違う時代だったことだろう。

若かりしR.シュトラウスが、ブラームスの交響曲第4番の初演に立ち会い、感激してから、まだ数年しか経っていない頃。

ブルックナーは、交響曲第7番を発表していたけれど、第8番はまだ改訂中だった頃。

マーラーはというと、まだ交響曲第1番の第1稿をブダペストで初演するかしないかくらいの時期だった。

R.シュトラウスは、よく「時代遅れの作曲家」と言われる。

それも、ある意味では正しいだろう。

しかし、ブラームスもブルックナーもまだまだ健在だった1888~1889年、20歳代半ばにして早くもこの「死と変容」や、あるいは「ドン・ファン」、ヴァイオリン・ソナタといった傑作の数々を書いてしまった彼は、間違いなくドイツ後期ロマン派の最先鋒の一人だったと言っていいのではないか。

ドイツ音楽において、リストの始めた「交響詩」というジャンルを引き継ぐことができたのは、彼くらいしかいなかった。

より後年に書かれた「サロメ」や「ばらの騎士」といったオペラほどの、洗練された和声の扱いは聴かれないけれども、この「死と変容」は、若いときにしか書けない類の「活気」に満ち満ちている。

 

そして、同じように、若書きだけれども時代を牽引するような曲として、最後にベルリオーズの「幻想交響曲」が演奏された。

この曲もやはり、ベルリオーズが26歳と若い頃に書かれている。

そして、ベートーヴェンの死からわずか3年しか経っていない、1830年のことであった。

アブネックの指揮するパリ音楽院管弦楽団(1828年にできたばかりのほやほやのオーケストラだった)の、ベートーヴェンの交響曲の演奏を聴いたベルリオーズは、大いに感動し、触発されたという。

5楽章形式になっていたり、各楽章に標題がついていたりするのは、ベートーヴェンの「田園」の影響かもしれない。

この曲もまた、若さならではの「活気」に溢れている。

 

アクセルロッドによる今回の演奏は、こういった「プログラムのつながり」のようなものを連想させてくれる演奏だった。

例えば、メイン・プロの幻想交響曲について、私は本来、ネゼ=セガン指揮ロッテルダム・フィル盤(NMLApple Music)のような、洗練の極みといった演奏が好きである。

今回のアクセルロッドの演奏からは、そのような洗練――研ぎ澄まされた弦の響きや、精妙な管のハーモニーといったような――は、聴かれなかった。

しかし、何とも言えない「活気」が感じられる演奏であり、この曲が若きベルリオーズによって熱狂の中で(あるいは陶酔?絶望?)書かれたことを思い出させてくれた。

他の曲についても、同様である。

なかなかに楽しい演奏会だった。

 

終演後、拍手の中で、アクセルロッドは一人一人の団員を丁寧に指名し立たせながら、親しげにふるまっていた。

そうすると、団員のほうもみな彼に拍手やグッジョブを贈り、それを見た彼はとても嬉しそうにお辞儀をしていた。

厳格な「巨匠風」の指揮者も良いけれども、彼のように親しみやすい感じの指揮者も、良いと思う。

心温まるひとときだった。

 

 


音楽(クラシック) ブログランキングへ

↑ ブログランキングに参加しています。もしよろしければ、クリックお願いいたします。