反田恭平 兵庫公演 ショパン 12の練習曲 op.10 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

反田恭平 ピアノ・リサイタル 
全国縦断ツアー


【日時】

2017年8月26日(土) 開演 14:00 (開場 13:15)

 

【会場】

兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール


【演奏】

ピアノ:反田恭平

 

【プログラム】

スクリャービン:幻想曲 op.28
ドビュッシー:喜びの島、月の光

シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化 op.26
ショパン:4つのマズルカ op.17、12の練習曲 op.10

 

※アンコール

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 より 第3楽章

グリーグ:抒情小曲集 第8集 op.65 より 第6曲 「トロルドハウゲンの婚礼の日」

シューマン/リスト:「献呈」

 

 

 

 

 

反田恭平のピアノリサイタルを聴きに行った。

かなり個性的な演奏だと感じた。

彼の一番の長所は、美しく繊細な弱音ではないだろうか。

スクリャービンの幻想曲の第2主題や、ドビュッシーの「月の光」は、聴こえるか聴こえないかくらいの実に繊細な弱音で、かつきわめてロマンティックで耽美的な音色で奏された。

「月の光」は、つい先日、萩原麻未の演奏でも聴いた(そのときの記事はこちら)。

彼女も、同じくらい繊細な弱音でこの曲を奏していたけれど、もっとさらっとした音色やルバート(テンポの揺らし)を用いていた。

反田恭平の場合はより濃厚であり、中間部に入る直前など、まるで音楽が止まってしまいそうな、消え入りそうなほどにリタルダンド(減速)していて、「憧れの昇華」とでも言いたくなるような、何ともロマンティックな様相を呈していた。

彼の演奏からは、近代音楽の祖としてのドビュッシーというよりは、ショパンに心酔し、ヴァーグナーに熱狂した、ロマン派作曲家としてのドビュッシーが浮かび上がってくる。

なかなか聴かれないアプローチだが、有無を言わせぬ美しさがあった。

 

ただ、彼の個性的な「濃い」ルバートが、どの曲でもうまくいっていたかというと、そうではないような気がした。

ショパンの「4つのマズルカ」op.17では、あまりにテンポが揺らぐため、もうほとんど舞曲であることを失っていた。

ピアノ評論家の焦元溥が、ショパンコンクールにおける小林愛実の演奏を評して「様式感が皆無」というようなことを言ったとかいう話があるが、そんな焦氏も、反田恭平のこのマズルカを聴いたらきっとさらに驚くことだろう。

小林愛実も、ショパンコンクールで同じ「4つのマズルカ」op.17を弾いていたが、彼女の場合は、持ち味であるロマン的耽美性が、マズルカ本来の舞曲としての様式とうまく融合した、バランスの良い演奏となっているように私には思われる(焦氏の評価も分からなくはないけれども)。

それに対し、反田恭平のほうは、どうもやりすぎというか、クセが強く、居心地の良くない演奏になってしまっているように思われた。

 

次の、ショパンのエチュードop.10でも、こういったテンポの揺らしや「タメ」、強弱の急な変化が聴かれ、クセの強さが気になるとともに、ともすると技術的困難を避けるための「逃げ」のようにも聴こえかねないような気がしてしまった。

例えば、op.10-4で言うと、最初はかなり速いテンポだが、第4小節目くらいで左手がオクターヴを、右手がオクターヴのトレモロを弾くところにさしかかると、急にテンポが落ちる。

そしてその後、左手が冒頭の右手のパッセージを受け継ぐと、再度速くなる、といったように、テンポが頻繁に揺らぐのである。

このテンポの落ちるオクターヴの部分は、弾きにくいのだろうか、と勘ぐってしまうのは、私の悪い癖だろうか。

 

また、上記のように彼の弱音は大変美しいのだが、彼の強音はときに硬い音色になってしまっていた。

それは、クライマックス的な箇所でもそうだが、それだけではなく、例えばマズルカop.17-1など、和音において上の音を際立たせようとするときに、その際立たされた音がキーンと硬くなってしまうことが多かったように感じた。

ショパンのエチュードop.10-11などでもそう。

この曲では、分散和音の一番上の音が実はメロディになっていて、この一番上の音を際立たせることでメロディが浮かび上がるようになっているのだが、この「一番上の音」がときに硬かったり、ムラがあったりした。

ティファニー・プーンなど、同じく濃厚な表現ではあるけれども、音は硬くならず、メロディの扱いが繊細で、歌わせ方が大変うまい。

 

 

 

つい文句のようなことばかり書いてしまったが、良いところもたくさんあった。

上にも書いた通り、弱音の美しさは特筆すべきものがあったし、テクニック的にもかなりのものであった。

ショパンのエチュードop.10全曲をコンサートで演奏するというだけでもすごいと思うが、その上どの曲もかなりの完成度を達成しており、颯爽としたop.10-1、滑らかなop.10-2など、感心した点は枚挙にいとまがない。

ただ、私はその作曲家やその曲ならではのイメージを重視するほうなので、あらゆる曲を自分色に染めていくタイプの演奏家(音楽性は異なるが、グレン・グールドもそのタイプだろう)が、どうも少し苦手なのである。

そんな私としては、彼の美しい弱音が堪能できる緩徐な曲、例えば上記の「月の光」だとか、シューマンでは第2楽章、ショパンのエチュードではop.10-6あたりが、濃厚な表現にも無理がなく、すっと心に入って、しっくりと味わうことができた。

 

 


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