シューベルト こころの奥へ vol.6 ピアノ三重奏
【日時】
2017年2月28日(火) 19:00 開演
【会場】
いずみホール (大阪)
【演奏】
イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)
ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)
アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)
【プログラム】
シューマン:ピアノ三重奏曲 第3番 ト短調 op.110
カーター:エピグラム(2012)
シューベルト:ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 op.99, D898
※アンコール
シューマン:ピアノ三重奏曲 第2番 ヘ長調 op.80 より 第3楽章
ファウスト、ケラス、メルニコフ。
この音楽界を代表する極め付けの3人によるトリオを聴きに行った。
1曲目は、シューマンのピアノ三重奏曲第3番。
この曲は、つい先日松本和将、上里はな子らの演奏で聴いたばかりだった(そのときの記事はこちら)。
そのときは「ドイツ」風の重厚な演奏だったが、今回は全く異なり、すっきりとした演奏だった。
大変洗練された演奏である。
3人それぞれが細部まで練られた表現を行い、それらの表現が3人の間でうまく調和し統合されている。
第1楽章から何という柔らかさだっただろう。
決して叫ぶことがないのに、隅々まで表現が尽くされているので、聴き手も飽きる暇などなく、否応なしに集中して聴いてしまう。
展開部では、ヴァイオリンとチェロとが1音ずつアクセントを受け継ぎ合い、共同して緊張を高める。
第2楽章の、まるでシルクのような肌触りの、かつ暖かみもある演奏。
その中間部では、チェロやピアノによる激しい表現が際立った。
ケラスの音、存在感のある確かな音で、なおかつ洗練されており、やはりすごい。
そして精妙な第3楽章を経て、終楽章へ。
この終楽章は、シューマンのヴァイオリン協奏曲の終楽章にも通じるような、さわやかでありながらも哀しみをも湛えた、「ありし青春への讃歌」のようなところがある。
喜びに溢れているのに、なぜか胸を衝かれるのは、そのためだろうか。
今回の3人は、これをやはり大変な洗練をもって奏するため、いっそう強く心に響いてきたのだった。
次は、カーターの「エピグラム」という曲。
短い断片的な曲が数多く連なった曲で、激しい表現から最弱音のフラジョレット奏法(笛のような音の出る奏法)まで、様々な要素が含まれている。
そのあらゆる表現において、彼ら3人は全く隙のない、完全な演奏を繰り広げていた。
そして休憩をはさみ、シューベルトのピアノ三重奏曲第1番。
この曲では、彼ら3人の精緻な表現がよりいっそう尽くされていた。
例えば、第1楽章の第1主題を演奏したのち、ピアノが弱音でこれを繰り返す部分、ここでは通常奏されるよりもさらに弱音で奏され、メルニコフの繊細なタッチが余すところなく発揮されていた。
そしてファウスト、彼女の演奏は、前半のシューマンでは大変素晴らしいながらも、ちょっと大きめにヴィブラートをかけていたのがわずかに気になり、「かつてはもっと細身の音で、針の穴を通すような安定した音程が聴かれていたのに…もしかして衰えの兆候なのか?」と心配してしまっていたのだった(ケラスやメルニコフの完璧さに比べたら、という程度だが)。
しかし、このシューベルトでは細身でヴィヴィッドな彼女ならではの完璧な音に戻っていて、大いに安心した。
もしかしたら、シューマンではやや不調だったか、あるいは奏法を変えていたのかもしれない。
曲によって奏法を変えていたとしたら、すごいことである。
第2楽章では、ケラスの心からの美しい歌が聴かれたが、それを受け継いで旋律を紡いでいくファウストの音も大変に美しかった。
第3楽章は、主要主題が回帰するたびに少しリタルダンド(遅くして)をかけてからア・テンポ(テンポを戻して)にするような、独特の表現だった。
ピアノの何気ない音階上昇音型、これをメルニコフは大変繊細な素晴らしいコントロールで奏していた。
トリオも3人の掛け合いが大変美しかった。
そして終楽章、これも大変独特な表現が聴かれ、冒頭の主題(これはシューベルトの天性が最高度に発揮された、大変伸びやかな旋律である)がかなり工夫されていた。
最初ははぎれよく、そして付点の入るところではタメを作りながら、かつレガートで奏し、そのあとではまたはぎれよくなり、テンポも元に戻る。
大変個性的な表現だが、その表現は洗練しつくされていた。
第1エピソードでは、ピアノのユニゾンによるエピソード主題の変奏、そしてその直後のトレモロ、こういったところのタッチコントロールが、まさにメルニコフの本領発揮といった感があった。
そして、第2エピソードでは、ファウストの美しく安定した歌が光っていた。
この曲では、シューベルト得意の絶妙な転調が随所に聴かれるが、それらを彼ら3人は全て意識して、転調によりふっと変わる音の風景を、音の強弱の変化などを用いてうまく表現していた。
全体に、後半のシューベルトでは前半のシューマン以上に、彼ら3人のうますぎるほどの巧妙な表現が極められていて、晩年のシューベルトならではの心の歌というよりは、彼らの工夫が前面に出ていた。
恣意的と言えば恣意的だが、その工夫があまりに精妙で練られており、洗練の極みともいうべき域に達していたため、有無を言わせず感動させてしまうところがあった。
「人工美の極致」といってもいいかもしれない。
アンコールのシューマンも大変に素晴らしかった。
演奏会全体を通じて、本当に、超一流の演奏とはこういったものか、と感嘆しどおしであった。
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